自分がMT(メインティーチャー、いわゆる授業の司会)でない時間をぬって、2週間くらい後に研究授業をするという先生の授業を見学させてもらいました。
授業の見方や視点って、本当にいろいろありますし、誰が見ても完璧だ!といった授業は存在しないと思います。私自身、いろいろな授業をやり、参加し、見てきたなかで、「今はこう思う、こう見る」はもっているつもりです。
ずーーっと前、「この授業は参加している子どもたち一人ひとりにとって妥当か?」でした。これは、授業者は子どもの成長や発達のために有益であるべきだという考え方に基づきます。子どもの機能や能力をみて、発揮できるところと、あとひと踏ん張りでいけそうなラインをいかに求めるか、が大事だと思っていました。
おそらく、この考え方は、当時周囲にいた教員集団が、いかにも子供の実態を把握しておらず、妥当性に欠ける指導ばかりしていると頭にきていた頃のことです。当時の自分にとって、そこは譲れないと考えていたのでしょう。
いろいろな授業への考え方をまぜ合わせながら、次は教えたいことに対して有効な形で話や教材などが提示できているか、でした。この頃は、個別指導の限界を感じつつ、集団の指導をバリバリやっていた先生たちの指導をみて、「重箱のスミをつつくばかりではいけない。何を伝える、学ぶのか、有効な手立てとストーリーが重要だ」と考えるようになりました。
【今】
今は、これまでの視点をもちながらも、授業の作り手がどのようなプロセスでその授業を作り上げていったか、作った授業によって、児童生徒がどのように受けとり、反応し、出力しているかに関心が向いています。
外野から、これはよくない、これはいいと瞬間を捉えるより、もう少しゆとりをもって、これによって何が生まれるんだろう、この指導にたどり着くまでに何を考えたのだろうと思うようになっています。
限られた時間のなかで、ST(サブティーチャー)も含めて、どのように授業をつくるか、その過程におもいをめぐらせることによって、授業者と同じ目線で、同じ課題を共有し、一緒にどうすれば面白いか、楽で効果的か、などと考えるようにしています。
この立ち位置を守っていれば、授業者に過大な負荷をかけることなく、不当な圧力をかけることなく支援することができます。目的は指摘することでなく、ただ褒めればいいという訳でなく、授業者と児童生徒にとって、有効なものを探求することかなと(今は)思います。