学校の文化 担任の先生より OT・PT・ST

1155)特別支援学校 主語は?

作業療法士協会では、特別支援学校や特別支援学級への支援について考えられており、それに関する研修会等が行われています。

最近、ヤフーニュースの記事で公立の学校教育や特別支援教育などが取り上げられています。

それらを見聞きして感じる違和感は、「主語」です。

【ニュースや研修会で感じる違和感】
「学校では、〇〇が大変だ」
「教員の働き方改革が…」
「学校を支援する」

などがあふれ、それぞれの立場で、それぞれの考え方でもって、様々なことが語られます。が、そこには現場の教員の声はなく、支援の当事者が置き去りになっていることが多いと感じられるのです。

「学校では、〇〇が大変だ」と言えば、「それが仕事だからやるのが当然」、「大変だからといって、誰かがやらないといけないし、代替えがないから仕方ないよね」と、教員がするしかない雰囲気で話が終わっている気がします。

「学校を支援する」といっても、様々な専門家を学校に入れることを決めたのは学校ではなく、もっと上のほうからの意見を受けてです。もともと、学校は制度に則って接地され、ヒト・モノ・カネが揃えられる保守的で均質的な組織です。そこに専門性を入れるということは、学校という枠組みと教職員文化を揺さぶることにつながり、支援する先は教員ではなく、学校にいる子どもたちであって、保護者へのサービスを向上させるために尻をたたくことになっている、と思うことがあります。(公務員的組織と専門家的な価値観の板挟み)

教員になる前は専門職だった私にとって、この流れはがんじがらめにされた専門性を開放することにつながり、内心歓迎していました。ただ、誰が、誰のために、それによってどうなるか、誰が満足するか、誰のためになっているか、誰が負担を感じるか、誰がガマンするかといったことを突き詰めて考えない限り、状況は良くならないのでは、とも思っています。(主語はどこにあるか)

最近こそ、作業療法士の研修会でも学校文化や教員の状況をみて…と言われるようになりましたが、それまでは職域の開拓、専門性をどうやって学校で活かすか、子どもの支援の充実といった専門性の押し売りみたいな雰囲気があって、内心嫌だな…と思っていました。

心理的に、時間的に、労力的に、責任の所在、専門性の違い、立場の違い、これらは子どもや支援者全員をとりまくもので、いわゆる「環境」にあたるもの。ICFは結構前からでているものなので、この場は何をするべきか(しないべきか)考えて、学校コンサルテーションが行われたらいいなと思います。