学校の保健室で、看護師さんと話しているうちに、リハの有資格者が学校に数人いるのですが、「臨床経験がある・ない」人に分かれていることに気がつきました。
臨床経験といっても、治療者がいて、対象者がいて、その関係性をもって働いているならば、学校でも医療機関でも変わらないじゃないかといえばそうです。
どんな場所だって、真剣に仕事をして、自己研鑽を積んでやっているならば、価値は変わらないんじゃないかといえばそうです。しかし、それでも「いやいや、やっぱりそこは違う」と思えたのです。
何が違うんだろう?と思いつつ、それは臨床経験を積んだことに価値があり、その経験がない人と一緒にするなというエゴというか、差別的な発想もないこともないんだろうなと思います。
しかし、考え方や言うことがどこか違っているので、そこを突き詰めて考えると、それは「怖さを知っているか、知らないか」の違いじゃないかと思いました。
【医療機関】
医療機関では、医師や看護師、検査技師、看護助手など、自分とは違う職種の人が同じ場所にいて、役割分担や専門性が分かれています。自分の役割を自覚し、同じ対象者の方(患者さん)であっても職場内での越権行為がないように気を付けています。
また、対象者の方の生死について、同じ建物のなかで最後を間接的に見届けることがあります。死や容体の変化、多くの疾患や障害をもつ人が多いだけに、自分のやっていることが妥当なのか、安全なのか、リスクを軽減できているのか問わねばならない環境だともいえます。
【学校】
病弱の子が通う学校でなく、特定の疾患をもっていない子でない場合、学校は治療的な面よりも生活の場という面が濃くなります。
決められたガイドラインや基準はあるにしても、基準や引継ぎにないことに気づきにくく、好意や善意、サービスが安全管理意識を上回ることがあり、保護者の気持ちを「起こるかもしれない」という理由で断るなんて、とんでもない。事故などが起きないように、教員が気を付ければいいのだ、と考えがちです。
人間、耳の痛いことを否定し、受容できる意見に対して好意的です。私も、そうかもしれません。だから、怖さを忘れないように、やり過ぎや判断ミスにつながらないように、と気を付けています。
