学校の文化

572)特別支援学校 多様性のある子どもを受け入れるときのジレンマ

ネットニュースや、いろいろな団体が出している文章のなかで、「うちの子どもは、みんなと一緒にいることが難しくて、学校を離れて居場所をつくって勉強しています。今ではすっかり…」と学校の中で適応できなかった子どもについて書かれたものをみます。

【居場所】
私は日頃組織の中でもまれているためか、自分の時間は世捨て人のようになったり、普段と異なるグループをつくって勉強会をしたりと、居場所を変えて生活しています。

どんな場所で過ごすか、どのようなところに所属するか、自分の何を表現するか、1つの場所では満たされないものを、複数の場所をつなぎ合わせて満たしている感じです。では、学校はどんな場所でしょうか?私にとっての学校は、収入を得る場所、将来への備えをする場所(年金や保険など)、日々を過ごす場所、自分がもつ専門性を少し発揮する場所、です。それ以上でも、それ以下でもありません。

学校に属することで、収入などがあって専門性を発揮するには窮屈で、クリエイティブではないので居心地はよくないです。なので、それらを満たす場所を自分で作ったり、参加したりしています。

ところが、多くの子どもの生活圏は狭くて、能力をどう発揮するか分からず、個人としてより保護者の管理のもと動くことが多いので、環境に依存した生き方しかできないことが多いと思っています。そうして、保護者の直接的な庇護から解放される場所は「学校」であることが多いです。

【教員万能論?】
公立の学校では、理想とする目的や目標に向かって進むための資源は十分でしょうか?

人材不足、教材が適宜補充できない、教育課程の枠組みでがんじがらめ、子どもによっては過密なスケジュール、複数の子どもと教員1名の組み合わせ、確保できない教材研究時間、同僚とコミュニケーションをとりながら授業づくりをする時間のなさ、公式の研修が仕事に追われている時間に勝手に開催されているなどの現状があります。

看板はあげても裏付けはなく、個別の案件をもれなく拾えという状況は、インパール作戦に投入されているような気分です。

【学校教育からの逃避】
冒頭のような話を聞くと、教員の専門性が低くて、子どものことを考えて指導していないという批判的な意見と、学校教育の枠組みは集団をまとめて指導する形態であって、個別に配慮する体を成していない気がします。また、学校という枠組みに残念さを感じながらも、そこから逃避したという話が珍しくなくなってきたとも感じています。多様な学びの形が求められるなかで、学校はどうあるべきでしょうか?

まずは学校教育で行われていることの利点と限界とマイナス面を整理して、それ以外の選択肢を少しずつ準備することだと思います。学校は学校で良い所があると思います。ただ、そこにこだわると煮詰まったりしないでしょうか?
かなと思います。

買い物はいろんなものを一度に買えるショッピングモールが便利です。しかし、学びは生活の場の中で行われ、均質化された環境では不向きな場合もあるので、今は商店街的な学びの場を増やし、大人同様に複数の場所に所属して、居場所を作る必要があると思います。