学校では食事をして、排せつをして、個別指導のお仕事をして…などの生活の営みがあります。
なか、ただ食べる場所に連れて行ってもらえば食べさせてもらえる。
自分は口を動かすことが摂食の練習だから、それをして食べればオッケー。
そんなお客様のような生活を送ることもあれば
どこが食べる場所だったか覚えて移動する、食べる前に何をするか思い出す、のように、「点から線へ」つなぐことで見通しがもて、することに自覚がもて、次に向けて準備ができるようになるのです。
【つないだ線が切れた】
①車椅子からおりる、かごをもってゴミ箱に向かう、ゴミ箱にごみをすてて、箱のふたを閉めて、カゴを再びもって教室に戻る。
②車椅子で途中まで押していってもらい、導線がクリアなところから車椅子からおりて、出席カードを所定の位置に置きにいく→車椅子に戻る→車椅子を押してもらって教室に戻る。
この2つの仕事があったとして、繰り返し行ううちに、自分で手順をふめるようになってきたとします。
ところが、いつの間にか①の仕事で目標としているゴミ箱の位置が、5mくらいずれたところに配置されてしまいました。
手順的には、場所が変わっただけなので変わりません。しかし、点から線へと行動をパターン化させていた子どもにとっては、導線が切れたも同然でした。①だけでなく、②の導線とイメージが重なってしまうところがあったのか、移動する方向にまとまりがなくなってしまいました。
こうなると、再び線がつながるよう、繰り返しパターンが定着するまで練習するしかありません。
【肢体と知的の差】
肢体不自由教育の場合、子どもの様子をみながら、状況に合わせて為すべきことを順番にしていけばよい、という雰囲気があります(すべてとはいわないまでも)。
しかし、知的の学校の場合は、「こうあるんだ」と決まってしまえば、多少不自由さがでても忠実にするほうが落ち着くことがあります。そのため、肢体不自由と知的の子どもが共存するとき、肢体不自由教育特有のゆるさや曖昧さ、臨機応変さは知的の学部にいる子どもと教員にとって耐えがたいものになる可能性があります。
時には相容れないことが起こっています。それに不満をもつばかりでは共存することは難しいでしょう。
肢体の教員にとっては「目の前にいる子どもだけでなく、学校という社会全体のなかでどう生きていくか考えるきっかけ」になります。
知的の教員にとっては「型にはめることで落ち着く集団になるのだけれど、様々なリスク(変動する)を想定して環境をつくるきっかけ」になります。