担任の先生より

632)特別支援学校 点はつながるが、基準ができるのはまだ先

やっと学級の子どもの顔と名前、おおまかな特性がみえてきたところです。
まだ校舎の配置や授業ごとの内容、地域連携や校内外の活動の概要はつかみきれていません。

日々、過ごしていく中で、これまでやってきたことが点のように使えるようになってきています。例えば、本を読む、列をつくって移動する、などの場面でどうするか、経験したものを適宜引っ張りだして、その場その場を乗り切るのです。

【今年度、難しいと感じている点】
昨年度は、簡単に褒めない(そこでOKにしないため)ことを基準にして、もっとできるはず、と指導してきました。課題を曖昧にして、適当なところで大人がフォローしてしまうと先がなくなるとふんだためです。

あと、何をする場面(又は時間)か示さずに、やらせっぱなしにするのはいけないと、ゴールを示してから一緒に進むパターンを作ってきました。

しかし、これは肢体不自由児対応の指導ではないか…?と思っています。今は知的の学級にいて、肢体不自由児よりも生活経験は多めですし、自分のやり方や考え方がはっきりしているようです。そのため、どうするべきか示しても、お気に召さなければそれまでになってしまいます。

【試されている】
今、子どもたちから試されているようです。
「この人は、ワガママを言ったらどうするんだろう?」
「どこまで許されるんだろう?」
「これをやったら、対応できるかな?」

それが指導として適切か、妥当か、合っているか、そんなことを考えて、ブレてはいけないと思い込むようにしています。迎合して、甘い顔をしたらタガが外れてしまうんじゃないか…?動きがある子どもたちが好き勝手始めた時の怖さは、4年ほど前の知的の中学部で味わっているので、それだけは避けたい…。

かといって、褒めてのせないと動かないようだし…。

結論として、このまま人間関係の形成を図りつつ、こうしたらどうなる?これくらいならどうする?と試すしかないと思っています。作業療法士をしていたときは、「治療しながら評価する」でしたが、今は治療(?)のツボを見つけるまで、ひらすら評価、評価、評価、です。

【相方】
ただ、微妙な距離感なのは、一緒に指導をしている先生です。
子どもが流れに乗れるよう、経験してきたことを活かしてリードしています。
いろいろ試している私について、もどかしさを感じているかもしれません。

「特別な環境で、ツボにはまった指導で学ぶ」

一見きれいに見えますが、特別な場、特別なことをしないと成立しないものって、本当に子どもの生きる力になっているのか?と思っています。誰でも分かってできることは何だろう?しばらく、苦しい日が続きそうです。