学校の文化 担任の先生より

672)特別支援学校 教員なんて、社会で通用しない

教員の常識は社会の非常識」と管理職が言って、同じことはやらない、あらゆるリスクを想定して準備しろ、改善案を出せ、決められた仕事は適切に遂行しろ、と指示されました。

基本コースにあった仕事は全く減りません。
膨張した仕事に見合った人員は増員されません。

すべてが見直しなので、避難訓練、校外学習、各種行事、校内研究などについて、すべてを更新し、更新した根拠を示すように求められました。その結果、教員の自主的に残業する割合が激増し、小規模校でしたが病休が続出しました。

担任などの教員が非常識なのでしょうか?

学校そのものが非常識のカタマリなのでしょうか?

ネットニュースなどでは、目に見える教員(担任等)と、教育委員会がよく出てきますが、実は学校教育に関連するものはそれだけではありません。文部科学省があり、地方自治の1つの役割として都道府県の教育委員会、

公立の小・中学校には市町村の教育委員会、校長の前に都道府県の校長会、学校長、副校長、教員、などのヒエラルキー構造が存在し、最後に関与するのは学校長から教員です。が、その方針や行動はどこが発端となっているのでしょうか?

それは…かく言う私も分かりません。というのも、学校現場で行われていることは、文部科学省や都道府県の教育員会からおりてくるものもありますが、誰もやらないし、どうせ学校(教員)がやれということなんだから、やるかと忖度して行っていることも多いので、仕事の責任の所在は分からないけれどやっている、ということがあります。(すべてが指示だと主体性や専門性がなく、すべて学校が独自と言うと教育委員会などの管理を無視していることになるので、難しいところです)

また、学校は公器として保護者や都道府県民からのクレームを大きくせず、適切に処理することが求められています。行っていることが常に適切で、教育委員会から指導を受けたりしないよう、自らルールやルーティンを設定し、その結果、自ら仕事を増やしている面もあると思います。

【教員は非常識か】
私が教員は非常識だと強く感じたのは、教員になりたての頃です。

それまで専門家として働いていたので、忠誠心は児童生徒にあり、発達や成長を促すために専門性は使われるものだし、学校はそれを支持するものだと信じていました。(現実は、順番が真逆でした)

一般企業も、医療機関も、学校も、それぞれに特性があり、役割や構成する集団によって考え方が違います。私が感じた非常識は、「自分の価値と違うことが許せない」だったと思います。今の時代、それぞれが独自の意思や主張がある訳ですから、あっていれば良し、合わなければ公器としてけしからん、となるのは考えられることです。

他にも、子どもは子どもとして成長する、大人になった時のことを考えて教育することは望ましくないという考えがあります。学校への反抗、逃避、拒否などは、子どもが過ごす場としてふさわしくないという抗議かもしれません。子どもが飲めない環境を作り出す学校はけしからん、という見方もあるでしょう。それでも、学校は子どもを独自の価値観の中に入れて、社会の厳しい環境から守っている面があります。大人でさえも逃げ出したくなるような社会環境に子どもを晒していいでしょうか?非常識と言われても、良心のもとに子どもを守っていると考えられなくないですか?