学校の文化 担任の先生より

680)特別支援学校 教員の研修履歴管理システム

教員免許更新講習に代わる形で教員の研修履歴管理システムが運用されることになりました。
何について研修するか、学校管理職との対話により決定するそうです。

教員は自己研鑽のため、研修を受ける義務がある。
管理する側が能動的に研修を支援している形になる。
「認可された研修」を受けるようすすめる。
何でも学びになると、好き勝手に設定していた(昔の一部の)教員の研修に一定の歯止めをかける。

などが考えられます。

【従来の研修・研究の問題点】
昔は研修といっても、形のあるものを指定や認定して行っていたものでなく、個々の主体性に任せていた面があり、パチンコ、家庭菜園も言葉遊びで自宅研修にしていた時代があったそうです。以前の記事で、生徒を床にたたきつけた教員についても書いたことがありますが、自由で抑止力が働かなければ、一部の人間は歯止めが効かなくなるものだ、と知りました。

かといって、細かいところまで管理・支援するとなると、管理職がさせたい研修を受けさせて、新しい仕事を担当させる一本釣りに利用されないか…?管理職が教員1人ひとりのOJTについて積極的に関与してきたかといえば、そうでもないと思います。様々なラインアップの研修があり、そのなかで著しい欠員があった場合、理由をつけて参加人数の調整を行ったりしないかと懸念されます。

研修はどんなものでも学びになる、それは理屈であって、仕事の1つとされ、妥当性を問われると一定の規格化されたものにいかざるを得ません。研修はどれを選んでもいいうちは、学校の行事や指導、会議の合間をぬって、行けるかどうか検討していたものです。しかし、研修が型にはまると、決まった研修の日程に引きずられます。自分がいなくなると行事の運営や会議が成り立たない、予定が大幅に乱れる、などの事態が想定され、その対応に追われることにならないかと思います。

最期に、教員の質を本当に高めていいのでしょうか?という問題提起があります。できることが増えると、それを実現するための人・モノ・カネが必要になってきます。実際、やりたくても安全確保のために動けない状況が続く教室で、有効なアイディアについて考えると、「やればできるという理想と、やりたくてもできないジレンマ」で摩擦熱が出始めます。枠内のなかでできることを考えよう、そうすることで自分の葛藤が増えないようにしています。まず、今ある能力を発揮できる環境で仕事ができないでしょうか?

これまでよく見られた、日常を度外視した、きれいな実践紹介は要りません。

シンプルに見える実践も、これを形にするために、授業者がどれだけ日々の仕事の合間や時間外に準備したんだろう?授業者が発表するために、周りの先生はどれだけの仕事を肩代わりしたんだろう?それを考えると、とにかく痛々しさを感じます。よい研修、成果が出せるような研修が企画・実施されるか静止していきたいと思います。