学校の文化

714)特別支援学校 長時間労働がイコール悪ではない

教員の労働について、「過労死ラインが何時間で、この先生は〇時間だった」、「早く帰りましょうとアナウンスはあるが、仕事が減っていない」などが話題にあがっています。

私は仕事を遂行する能力を高め、効率化して、ということについて賛成する面もありながら、教員の仕事は創造的であるべきと思うので、圧縮して詰め込むことはどうかと思っています。また、教員の労働に関する負担感は時間だけではないと思います。実際に校内で掲げられた働き方改革案は以下のようなものでした。

①退勤の促し
②残業時間の確認
③定時退勤日の設定

だけです。仕事の数や量、手間などの見直しはほとんど行われていません。やはり今の教員をとりまく環境と労働実態の全容を明らかにしていくことが必要だと思っています。先生は大変、部活が、授業準備は、マンパワーが、といった部分的なものだけでなく、社会における学校の位置づけ、教育財政、学齢期の子どもの支援体制など、広く物事を捉えないと具体的な改善案には到達できないでしょう。

教員の負担感はどこからきているのでしょう?現場で感じるものをいくつか挙げてみます。

【適正にと言いながら適正でない実態】
ルールや手順に則って、市民に誤解を与えないように、が暗黙のルールです。杓子定規さが仕事をすすめるうえで重要だとしながら、教員の仕事や時間の管理はほとんど行われていません。このギャップの大きさは私が経験した民間企業や機関より大きなものでした。行政サービスを過剰なまでに手厚くする一方、教員の労働者としての権利(人権)はないのでは、と思えることもありました。

【仕事を増やす人が評価される社会】
この働き方改革が言われている状態でも、仕事アピールする人が評価される実態に変わりありません。成果主義が教員の評価基準になっているので、よりたくさんの仕事を、より刺激的な仕事が毎年提案され、周囲の教員の首を締めながら、「良きこと」としてねじこまれていきます。児童生徒の成長のため、だけではなく、周囲の教育資源の状態を見てから企画してねと思ってみています。

【未経験の仕事】
たとえ子どもの指導につながるものであっても、未経験の仕事だと、見通しがもてません。何を、どのような手順で揃えるか、誰と連携するか、〆切はいつか、必要物品はどこにあるか、やったことがある人にとっては簡単に思える仕事も、分からないものに着手するストレスは半端ないです。それも、担当した行事を経験した人には前例主義的な価値観があり、納得されないと案が通りません。学校では人とつながり、適正に担当した仕事を遂行することが求められており、日ごろから人のつながりを大事にしておかないと、または協力的な同僚が存在しないと、サポートがなく仕事を抱え込むことになります。

【縦割りで不平等な仕事】
先の担当仕事とつながりますが、Aという仕事は季節的な仕事で春・夏・冬はすることがなく、秋だけ鬼のように忙しい仕事があったとします。Bという仕事は1年を通して仕事がありますが、時短で済む内容です。さぁ、どう分担するでしょうか?

A=りんご先生

B=いちご先生

となります。いつご先生は、ルーティンなので、基本は自分で淡々とすすめ、休みなどでは誰に頼むか事前に設定しておけば、なんとかなるでしょう。ところが、りんご先生になると、まず自分が仕事の全容を把握し、全体に協力を得るなら実施案を提示して、協力を求めないと、すべて担当者であるりんご先生が抱えることになります。他の先生が帰宅しても、〆切までに順を追って片付けないといけません。それも、自分の学級や学年の仕事を抱えながら、です。

事前に担当を複数にすればいいじゃん、とよく言われますが、それぞれが仕事を抱えているなかで、1つのプロジェクトに全員を集めるのは結構難しいことです。なので、私としては全体の負荷をもっと下げ、随時必要なところに、必要な人材が集まりやすい環境をつくることで、教員の負担感が多少充実感にかわり、時間や労力が短縮できると思います。