最近、他の人に見せる授業をつくることになり、何をするかなーと思いました。
普段、かかわりの薄い子どもたちの指導となると、誰でも参加できる授業を組み立てます。
実際に授業をするなかで「発問の内容」、「見せたいポイント」調整し、まずはその場で「できる、分かる」授業を目指します。それでも合わないと感じたら、次の授業以降で内容を部分的に入れ替えていきます。いきなり全変えすると、全く別の授業になってしまうので、「この先生はこんなことをする人だ」「ここは前やったから知ってる」という授業に向かう手がかりを全て奪ってしまうからです。
ただし、教員に与えられた期間や回数が少ないならば、前回は様子をみさせてもらっただけです、ここからは本番になるんです、と大枠を示し、やることの順番を示し、一つひとつ「これをする!」と見せていきます。この総とっかえ授業をするときは、コケずにできる授業を準備する必要があると思うので、頭と手を使うことが多いです。
【多様性を認める授業と、型にはまることを求める授業】
最近、楽しい授業を作ることに重きを置かれ過ぎているように思います。
確かに、楽しければ時間が過ぎるのを忘れるし、ワクワクするし、気持ちいいと思うんです。でも、教員の仕事の根本は文化の伝承であると思うし、一緒に何かをやって楽しかった経験だけでない「何か」をちょっとでも持って帰ってもらうことも大事だから、「楽しい」から離れる勇気も必要だと思っています。
どんなときに「楽しい」から離れるのかなと思い出してみると、世の中にある、多くがそうだよねと思っていることは何か示すときと、基本的な概念(色、形など)を示すときは、曖昧さを除外しています。
【例えば りんご】
線だけで描かれたりんごに色をつけるとき、いきなり好きに塗らせると、それはいろいろなりんごが出来上がります。「いろいろなりんごがあって楽しいね」「いろんな塗り方があるね」も指導目標に照らして合っていれば〇ですし、多様性を学ぶ機会にもなります。
一方、今後りんごを「1つのもの」として例示するならば、単なるカラフルな塊ではなく、丸に近い単体の果実で、色は赤や黄緑が多くて、手のひらにどっかと乗るくらいの大きさのものなんだというイメージを共有する必要があると思っています。ここには多様性も何もありません。「こんなものだ」という概念的なものを授業を受けている面々が共有できていることが前提になります。
これがあって初めて、魔女がもっている赤いものはりんごであって、こんなものをシンデレラはガリっと食べるのだ、というストーリーを味わったり、数の勉強で「1」「2」と刻める素地になるんだと思っています。
【これから学ぶものは何か】
多様性を求めるならば、いろんな考えや表現を認めることになるので、多少提供する情報が過多になると思います。一方、教えるキーポイントを絞るならば、どこに注意を向けるか明確にするために構造は単純になります。
終始自由な表現を推し進めるのは図工の授業に多いと思います。概念をしっかりと思うのは国語数学(算数)が多いと思います。ただし、集中させるには子どもの集中力や感覚(見る、聞く、触覚など)などのの特性をふまえてですから、集中させたり緩めたりして、授業一つをどのように過ごすか事前に、その場で考えてすすめています。