学校の文化 担任の先生より

937)特別支援学校 面白がらなくなったら、終わり

「今日、〇〇さんが教室で、こんなことを言っていたけれど、これは、前にああ言っていたし、こうなったんだと思う」みたいな話を会議の場でなく、下校させた後にすることがあります。

こんな話をするとき、単なる雑談ではなくて、いろいろな意味があると思います。

【面白さや思惑】
自分が感じたことを、言語化して整理している(他人がどう感じているかは、あんまり関係ない)

  • 私、気づいちゃった(感動の共有)
  • そこから派生した指導方針に協力して欲しい(共通理解して指導できたらな)
  • そこから派生した指導方針に協力して欲しい(私の指導観の邪魔、上書きしないで)
  • 子どもの実態の捉え方について、人ごとに違うのを共有する
    など

たまに、「自分はこう考えるんだけど、他の見方や考え方があるのかな」と思うことがあります。どうせ聞くなら、新しい知見や発見があったほうがいいし、有益であって欲しいと思います。

話をしながら、自分の考えが言語化されたり、まとまってきたりするのが面白いです。普段決まった枠をこなしているようで、実は試行錯誤や変化を感じて考える作業の繰り返しをしています。これについて意味や原因を考えるのですが、それを面白いと感じられなくなったら終わりだなと思っています。

たまにいるのが、偏った視点や、考えの浅いのをこれ見よがしに話す人です。もう、この人と話をするのは時間の無駄だ、この人と一緒に指導するのは交通整理が増えるので面倒だと感じるようになるので、少し距離を置きがちです…。

距離を置くのは、A自分が受け入れにくい考え方やレベルだから、B無益で無駄と思うから、だと思うのです。そう考えると、Aをどうするかだなぁ…。ここは、単なるワガママで、都合悪いことから逃げたいんだろうな…と。

これが医療系であったりすると、仕事の幅と質に向き合うことから逃げてはいけない雰囲気があるんですが、学校は多様性と文化を尊重するところなので、究極の何かを希求するのは二の次、三の次になるかなと思います。

職員室には、まったく教育観や価値観が合わない人も存在します。他のことは適当なのに特定の分野でマニアックなところを見せる先生もいます。どれもつまみ食いをするからいいのであって、ずっと側でやられると、正直キツいです。