学校の文化 担任の先生より

975)特別支援学校 インクルーシブな社会の形成者を育てる

学校では、研究や研修の目的で、いくつかの雑誌を購読しています。

特別支援教育研究や日本教育新聞などのほかに、OTやPTに関する雑誌も選定されて購読されていることがあります。やっぱり、昨今の多職種連携を契機に、校外の専門職の動向や価値観に関心がもたれているということかな、と思います。

今いる学校にはきていませんが、以前行っていた学校に医療関連の雑誌が入っていて、ちょこちょこ読んでいました。当時は、「学校って何だ?」「教員っていうのは、何を考えているんだ?」「自分に何をしろというんだ?」などと、いろいろ考えていた時期だったので、「そうだよな、分かる」と落ち着けるものだったのです。

じゃあ、今はもう何かを悟って落ち着いたのかというと、実はそうでもないです。自分が信じるものはOTか教員か?と考えて、その後、アニメの東京喰種みたいに、間に立つものでないかと考えて、それでもどこか納得しきれないものがあり、今では「なんだか色のはっきりしない教員」になっています。

「こうありたい」と、「どうすれば無理せずに仕事がうまくまわるか」、は一致しないと思った末のことです。こういうのは、そのうち変化したり、ぽっと現れたりするので、焦らず待とうと思っています。

【雑誌のなかで過去の自分に出会う】
過去の自分といっても、自分が執筆したものを見つけたという話ではありません。書いてあることが15年くらい前の自分と、どこか似ていると思ったのです。

①集団の教育力について、多様な考えや特性をもつ子供たちが同じ空間のなかにいて、画一的な指導によって苦しめられてきたのではないか。

②違いを排除することで集団をまとめようとしてきた「村八分」の考え方が残っているのではないか。

③全ての教師が子供たち一人ひとりに合理的配慮ができない等、特別支援教育についての知識と技能が身につけられていないことが課題ではないか。

④インクルーシブな社会を学校の中に実現していく必要がある。

他にもいろいろあるのですが、このようなことが書かれていました。特に、③は私が教員になってから、しばらく頭を悩ませたことです。障害特性と予後をふまえ、やっておくこと、配慮すること、やってはいけないことの線引きができていない教員の姿を見るたびに落胆したことを覚えています。

1つひとつを見ていくと、それぞれ正しいことのように見えるのですが、それぞれ反対の意見を設定すると、それもまた正論だと思えることがあり、難しいところです。

【反対の意見】
①画一的なことをしてみて、集団のなかで自分はどの位置か分かり、同じことをすることで安心できる一面もあります。自分が落ち着ける場所で一緒のことをして過ごすことと考えれば画一性は悪とはいえない。学習指導要領では教科とその内容が指定されており、好むと好まない、特性に合致していなくても授業を受け、一定の成果をあげることを求められている現状では、ある程度、画一性がないと成り立たないと思われます。

②集団をまとめようとしてきた「村八分」の考えは、異なるものや合わないものを吊るし上げることにつながりやすいことは分かるけれども、行き過ぎなければ、違いは常に受け入れられるものではなく、公共のルールやマナーの範疇で生活することを教えることにつながると思われます。「自分がこう思うから、こう。何が悪いの?」のような公共の場で傍若無人に振る舞う人を見て、個もいいけれど集団の指導もおろそかにしてはいけないのでは?という危機感をもっています。

③教員は合理的配慮だけでなく、個に応じた指導、個別指導、集団の指導、公共心、などの多様で曖昧なものに翻弄され、結果や経過が気に入らなければ批判の的になります。一人の特性に配慮するとき、他の児童生徒はほったらかしになるかもしれないが、そこは容認されるのか?といった意見もくみ取られるべきです。

④学校こそ、インクルーシブな場がつくりにくい所かもしれません。障害の有無にかかわらず、一緒の場で学ぶことは共生の面で価値があると思うのですが、学校に行くだけでなく、そこで何をするか、何を達成したいかという具体的な目標(数値を含む)をもっている保護者や児童生徒にとっては、教育の横の広がりや多様性を好まず、一貫性を重視する傾向があります。

学校は、多様な保護者と児童生徒の価値観が集まる場所です。保護者と児童生徒は学校に対して多様な思いや価値観と期待をもっており、それが正しくて、個に応じてと言っているので実現できるだろうと期待してきていると思います。そこへ、特別支援教育はみんなのものだから受け入れて、というのも、ある意味「画一性」を強いることにならないでしょうか?

障害をもつ人がいる、その存在に気づける場として学校は重要な位置づけになると思われますが、そこから障害をもつ人に積極的にかかわりたい人、一緒にいることを自然に受け入れられる人、受け入れたくない人、自分のことだけやりたい人、に分かれてくるのは仕方ないことで、理解はして欲しいけれども、強いることはしたくないと思います。

ここまで書いてみて、これもまた極論かもしれないと思いつつ、ある1つの正しいという方向に全体が流れていくことは良くないと思って、対極になるような意見を書いてみました。

教育人間学にある「あらゆることはバランスをとっている」「1つの方向だけでなく、いろいろな面から物事をとらえること」をふまえ、物事の本質を捉えつつ、自分はどうしていくか判断できればと思っています。これを読まれた方も、共感と批判をもちながら、自分ならどう考えるか、どうするか、思いめぐらせて頂ければ幸いです。