学校教育について、本当にいろいろな見方や考え方があるものです。
多くの人が通ってきたであろう学校生活、そこで感じたものは学校により、人により様々で、批判的であったり、肯定的であったり、懐かしむ気持ちであったり、二度と思い出したくないものであったりします。
部活はどうだったでしょうか?
かつては「青春の一ページ」などと言われたこともありますが
「とにかくみんなで集まって何かするのが楽しかった」
「目標に向かって取り組むことが有意義だった」
「とにかく全員加入で、塾などと併せて忙しくてたまらなかった」
「殴られてばかりでイヤだった」
「ケガをしてしまい辛かった」
などの記憶があると思います。若いうちは、楽しいことも辛いことも経験して…と言われたものですが、今はどうも違うようです。「目標を設定して…」などと言う人がいますが、それだけで説明するのは乱暴な話だと思います。
若いうちは、楽しいことも辛いことも経験するなかで、個々の器を大きく、強くしていくのだと思います。時には同調圧力でやらざるを得ないこともありますが、自分で選び、行動しているうちに自分の器ができあがっていくのだと思います。
壊れる前にとめておく、このままやっても明らかに意味がない、このまま続けていたら歪む、といった場合は「逃げる」ことも必要ですが、それは大人も同じこと。今ではさらっと職場のヤバい人から距離を置いたり、ヤバい校長のいる学校からさっさと異動したり、このまま続けても先がないと転職したりするじゃないですか。その判断は大人になったからできることで、学生時代だったら清水の舞台から飛び降りるような、難しいことだったかもしれません。
【部活をどうするか】
あるネット記事で、「子どもたちのためになる以降か展開を考えるべきではないだろうか。それには、カネをかけることも検討することが必要な気がする。それをやらないで、移行なり展開しても、困るのは子どもたちでしかない」と書かれていました。
まず、学校にある部活に居場所ややりがいを見出している子どもを放り出すな、ということだと思います。
〇部活は学校でなければならないか⇒学校で枠を決めると、人が集まりやすく、指導者コストはタダ、物品費用も学校の運営資金(あわよくば部活顧問のポケットマネー)がでる。
〇生徒全員が部活をやりたいと思っている訳ではない。
〇部活は何かに取り組む場所で、たまたま学校に部活という受け皿があるので入っただけかもしれない。
〇授業が終わって、移動なしでできるから、生徒にとって、保護者にとって便利。
〇中体連や高体連などの団体があり、試合などが設定されている。
〇地域の受け皿が十分に整わない。(特に人的に、金銭的に)
【指導すること難しい状況】
「部活は生徒の健全な育成のため…」、「部活を通して、何かに頑張ろうとしている生徒の意欲をそぐな」、「地域移行したら、保護者の負担が増える」といった意見は、これまでいくらでも目にしてきたので置いておきます。
指導が難しいという教員の状況も知ってもらいたいです。ここでは、教員ごとの指導力や経験があろうとなかろうとの話ですが、近年、「学校の責任」、「保護者説明」、「個別対応」、「子どもの人権」、「教育公務員として」、「専門性の向上」、「適切な学校運営」などが、時に過剰になり、日々の教員のタスクと精神的プレッシャーを増大させています。(真面目にやる先生ほど、すぐにキャパを越える)
部活について、家族との時間や親の介護が…などの「顧問をするのが難しい教員」もいますが、能力や時間も多少あるけれど、とにかく日々のタスクに体力的に、精神的に追い詰められて、それどころではないと考える教員もいるということです。(そんな先生は学校から静かに退場することも。それでいいのか…?)
教職に就く人の気質が変わってきているのかもしれませんが、長年教員をやってきて感じていることは、教員をとりまく環境が明らかに過負荷になっているということです。
そのため、授業なら授業について考える、部活なら部活について論じる、ではなく、年間を通じて、一日を通じて、教員の仕事はどうなっているか理解する必要があります。あれも大事、これが大事ではなく、どの程度(質)、何をするか(量、タスクの数)調整する必要があり、授業を捨てる訳にはいかないから、法的に根拠のない部活から縮小または地域移行させようというのは自然な流れではないでしょうか。
個人の感覚ですが、今の時代に求められる授業の質を継続しつつ、部活もやってと教員に求めるなら、授業時数を半分、校務分掌の半分を無くす、くらいやらないと厳しいかなと思います。(ただし、部活に常勝とか、うちの子をレギュラーにしろ、などという圧力はなしで、あくまで指導の一環と考える)
【何事も子ども中心に考えすぎていないか?】
エッセンシャルワーカーも、地域住民も子どもをとりまく環境の一つですが、それぞれの価値観や生活をもっており、支援者であっても、奴隷ではないことを忘れてはならないと思います。
余裕があるなかで、「好意」でやっているうちはいいですが、同じことでも「義務」や「職務」と言われて縛られると負担感がでることは誰もが理解できることと思います。
森田健作や中村雅俊、山下真司の時代はとうの昔に終わりました。教員が個々の裁量で、もっているものを生徒に伝承できる時代ではなくなっているのです。