ネットニュースで、支援学級について、色分けをしているのは差別的で、いじめにつながるのでは、みたいな記事を見ました。
確かになぁ…。
自分とは違う人や、よく分からないことに不安や緊張感をもつのは仕方ないし、そういうものです。それに対して興味をもつ人や、そういうものだと受け入れられる人もいれば、排除や隔離に走る人もいます。
自分を認められない、自分を信じられない、認められていないという気持ちから、他人に厳しくなったり、冷酷になったりすることもあります。
あぁ、そういえば、自分も社会の中で居場所を見いだせなくなったとき、他人のすることに、やたら厳しかったな…。
【教員の立場】
教員として、差別だとか、いじめとか、そういった人が誰もが自分の尊厳を損なったり、自尊心を傷つけられるようなことは認めないし、共存や共生できるように働きかけることが求められていると思うのです。
それはまさに、理想を語るだったり、ある特定の価値観を「こうだ」と示すことにつながる訳で、昨今の多様性や個人の価値づけを尊重することと対立したりすることがあります。そのへんの線引きはなかなか難しいですね。
それがいいかどうか、許容できるかどうかは別にして、目の前にいる大人(教師)が、こうだ!と示すような指導は現代の教育には向いていない気がします。多少おかしいなと思っても、「仕方ないな、やってみますか」、「ガマンするか」、「あいつはおかしい、自分ならこう考える」、「あんな変なことを言う大人にはならねーぞ」など反応は様々で、それぞれ教員の様をみて、自分なりに自己教育力を発揮していたと思うのです。
今は、面白くないですね。誰からみてもおかしくないもの、均質的なものを教員が選ぶようになってしまいました。「こちらが立てば、あちらが立たず」の状況になることを恐れる傾向があるので、仕方ないですね。
【だってさ】
ともかく、特別な支援を必要とする児童生徒には、特別な支援が必要であって、児童生徒によって、場面によって、課題によっては特定の子どもを見失うことなく支援しなければなりません。
大勢の児童生徒のなかに混じってしまって、見失ったがために、問題に対応できなかったとしたら、どうなるでしょう?指導にあたっていた先生の責任を問われることになります。
全体の動きをみながら、そのなかで集団をどうまとめるか、次にすることへの指示をどうするか、学級の子どもたちは揃っているかなどを常に考えている先生たち、目印をつけることが差別だと一方的に批判していいのでしょうか?
理想や理念を守れ、失敗や事故は許さない、そんな寛容でない社会のなかで、みんな幸せでいられるでしょうか。いじめを容認するとか、そういうことでなく、とにかく色んな意味で窮屈さを感じるのです。そう思うこと、ないですか?