こんにちは、雑賀孫市です。
今日は、特別支援学校での授業でありがちな、「選ぶ」という学習の中で見られる行為について考えてみたいと思います。
【日常の中で選ぶことの大切さ】
私たちは経験し、理解し、選択し、決定し、行動を起こすといった流れを繰り返しながら生活しています。
男女が車で出かけて、「何食べる?」⇒「どこでもいいよー」となれば、選択権を相手に委ねることになります。一方、比較的近くにあるかっぱ寿司と、ちょっと遠いところにあるスシローのどちらかというと、ちょっと考えてしまいます。
・かっぱ寿司にすると、株主優待が使えて現金を出さなくてもいい、近いから時短になる、何気にそこの茶わん蒸しが食べたい…。
・スシローにすると、距離があって時間はかかっても、キャンペーンをやっているから行ってみたい。
など、様々な観点を天秤にかけ、その重要度を列挙して、苦渋の選択をする訳です。
【選べないとき】
①何が選択肢となっているか、話を聞いていないと選べません。
②聞いても、言われている言葉の意味が分からなければ答えようがありません。 フィリピン料理の、「レチョン・バボイ」にしますか?それとも「キニラウ」にしますか?とか。ちなみに、「レチョン・バボイ」は豚の丸焼きのことです。
③選択肢をきちんと見ないで、余所見ばかりしていると選べません。
④考えて選んだけれど、自分に何を及ぼすのか分からないと選べません。遊園地に行き、「ジェットコースター」と「コーヒーカップ」、どっちにしようかな?と言われました。「(相手が乗るものを決めかねていると思い)ジェットコースターでいいんじゃない?」とこたえると、「分かったよ、君はジェットコースターに乗りたいんだね」と乗りたくもない乗り物へと強制連行されるかもしれません。
【学校で見られる選択】
学校で発問として出されたとき、課題となるのは③と④のような気がします。
③の場合、見ていないけれど、いくつか目の前に出された。
教員はそれらを示しながら、何かを言ってたみたい。
とりあえず、目にはいったものを手に取った。
④の場合、教員がいろいろ説明してくれ、右のこぶしと左のこぶしを差し出してきた。
どうやら、どちらかに触れなければならないらしい。自分は利き手に近い右のこぶしに触れた。
(どういうことか⇒「右手を出して、これは外へ散歩に行く、左手を出して、これは図書館に行く、どっちにする?」)
【見どころ】
子どもが聞かれていること、見せられているものは何か、基本的に分かっていないと選ぶというのはきついです。
食べたことのない色違いの二つの果物を見せられて、「選んで食べて」と言われると困惑しませんか?
このように、選ぶ前に、選ぶものが何か知っていること、分かることが大事だと思うのです。
選ぶ前に対象物をきちんと目で見ているか、子どもの様子を観察する必要があります。
なんだか分からないけれど、とりあえず見ないでとってしまう、というケースもあります。
AとB、それぞれ黒いボードの上に置き、手の届かないところで見る、見比べさせる、などが大切だと思われます。
【反省】
大人自身が見通しをもち、何をどうするか分かっているからこそ、具体物を子どもに選ばせる傾向があるのではと思います。
まずは見ること経験すること、分かることが大事で、その上に「自分の意思で選択する」がのっかってくるのだと思います。選んだから子どもの自主性・自発性を促すことができたとするのは、ちょっと安易だったと私自身反省しなきゃ、と思っているところです。
https://magomago1.org/227supportfromnonjapaneseperson/
前回は、「227)日本の不足する人材を海外から呼ぶことについて」ということで、日本の人材不足のことを書きました。
https://magomago1.org/229iskeepingtheplacesafetyeasy202010/
次回は、「229)介護業界の「みまもり」と、特別支援学校の「教室待機」に必要な能力が似ている点について」というタイトルで書いてみます。