前田康裕(2018)「まんがで知る教師の学び3」、さくら社を読んでいました。
前回に続き、今回もその中で書いてあったことから感じたことを書いてみます。
【あらすじ⇒大地震が起きた】
本書の中では、大きな地震が起こったということで、先生たちが校舎に異常がないか見回ります。
「大丈夫そうですね」というところで、教頭先生が「大丈夫じゃない」とつぶやき、校舎の外壁が大きく崩れて、落下していることを指摘しました。
教頭先生「下に子どもがいなくてよかった。子どもがけがをしたら学校の責任が問われる…」
「また地震が起きるかもしれない。今のうちから保護者への対応策を考えておかなければ!」
それに対して
校長先生「まず、われわれがやるべきことは 地震がきても子どもたちがけがをしないように環境を整備することと、臨時休校で失った授業をカバーするためにカリキュラムの見直しをすることではないかな?」
「子どもたちのことを優先しよう」と言います。
教頭先生「す…すみません こ…こんな時でさえ 責められる学校の姿が思い浮かんできて」と涙ぐみます。そうして、「子どもたちに申し訳ない」とガックリします。
この後、休校時の学習時間の確保も含めて、ICT活用について検討されていきます。
【教頭先生と校長先生の意見について】
この場面から、教頭先生と校長先生が言っていることは、それぞれ正論だと思いました。
このなかで、子どものことが後回しになったと教頭先生がある意味自己嫌悪に陥ったのは、先回のブログで挙げた教員の特性によるものではないかと思います。
教頭先生は「設備管理」と「説明責任」を軸に話をされています。
実際、校舎の壁が落下して、子どもがケガをしていたら教育委員会が会見で謝罪をしたり、報道で校舎の管理体制や整備はどうだったかという疑問の声があがったり、こんなところに安心して子供を通わせられないという保護者の声があがったり、ということが考えられます。
教頭先生は管理職として、これらの事態にどう対応し、どう落ち着かせて日常に戻していくか考えた末のことだと思います。
校長先生は子供を教育する専門家として意見を述べています。が、校長先生こそ対外的なことや、学校を頼りに集まってきた地域住民への対応も含めて、学校をどう運営するかの大枠をおさえることに集中すべきじゃ…と思いました。
ともかく、このエピソードから教員は様々なことを同時進行で担っていることが感じられたのではないでしょうか。
【その後の対応】
その後、教育課程(授業をどう組み立てていくか考える)を考えるうえで、ICTを使った授業などが紹介されますが、実際にコロナウィルスによる休校が始まったとき学校現場は混乱しました。
機材が足りない
使い方が分からない
オンラインをどこまで使っていいか、お伺いをたてなければならない
何をオンライン授業で出すか
アクセスする権利をどうするか
どの学部が、いつ放送するか(番組表的なもの)
などが課題としてあがりました。
そして、実際の授業が始まったらどうするか、いつ始まるか分からないということで、先生たちはオンライン授業と実際の授業の計画や準備を二重でやっていました。
「学校教育(授業)は教員が行う」
これが学校教育を行う教員は教員免許が必要という根拠になっています。
しかし、だからといって、学校の教員だけで運営しろとは言っていません。
勿論、公的な場所であるから、予算はもっと必要になるでしょう。
公的な場所だからこそ、実施が難しいところは削減も考えねばならないでしょう。
そうしながら、専門家や地域の教育力をもっと柔軟に巻き込む仕組みができたらなと思います。
https://magomago1.org/259whatisteachersenergystresser202010/
前回は「259)「まんがで知る教師の学び3」より 教師のやりがいと失意について考える。」でした。
https://magomago1.org/261whenyoumisstheschoolbuswhatdoyoudo202010/
次回は、「261)特別支援学校のスクールバスに乗り遅れたらどうする?」ということで、正規ルート外れたときの冷静な対処について書いてみました。