学校のことを書く前に、会社にいたときの話を出して、それを前振りにしたいと思います。
会社にいたとき、やっている仕事は会社が行う営みの一部を、「私の仕事」として渡されていました。
勿論、それについて記録や報告はあるのですが、まさに、任されていた仕事です。
そのため、それが1人で行おうと、コンビを組んでいようと当事者意識と責任があり、その責任の所在を投げ散らかしたりすることは、(ほぼ)ありませんでした。
では、学校はというと、すべてが公務で自分の仕事はありません。結果的に設定された仕事が埋まるまで割り振られた人的、物的資源をそれぞれの場所に分配する作業は続きます。割り振られた教職員は、その仕事の大小や質の高さにかかわらず、結果的に埋まることを目指して仕事をすすめます。
①割り振られた仕事が小さい、または人的資源が潤沢すぎるときは、「その規模で適切に仕事を行ったというために、仕事を増やす、または大きくする傾向があります。」
②割り振られた仕事が大きい、または人的資源が不足する場合でも「その仕事を全うすることを要求されるので、質を下げてでも、または構成員を酷使してでも全うさせる傾向があります。」
【学級経営にも、その傾向はあてはまる】
学級経営でも、上記の①と②はあてはまります。
①は余裕があり、②は余裕がない状態です。
②の場合、その負荷が顕著であると判断されれば、比較的キャパがあるだろう①から人員が補充されます。補充により頭数は揃ったように見えて、②の集団が抱える仕事をクリアできる人材か、というのは別の問題です。
例えば、②のグループにいる児童生徒の支援が複雑で、サポートの人がすぐにできるものでない、性別が合わず人権、体力面で問題がある、日々かかわるからこそ分かる共通認識や情報が浸透しておらず、実態が把握しきれていない、日々の変化をみているからこそできる状況判断が難しい、などの問題があると、人は来たけれどどうするか、サポートの人に何をしてもらうか説明または仕事を分配する仕事が増えることになります。
【サポートは不安定】
サポートに入ることは日常ではなく、①に人員が必要だとなれば、②は構成員を酷使してでも全うさせることになります。(人員の補充なし)
サポートが入っても、その人の力量により、すごくできるという人から、見守りだけお願いするというレベルまで様々となります。(マンパワーの不安定さ)
このゼロ(またはマイナス)の指導体制から、補充されたマンパワーの内容までを考えると、人的資源のリスク(振れ幅)はかなり大きいものになります。その場でできることを目指すと、児童生徒にとってはどうでしょう?
大人の人数や顔ぶれによって、すること、するタイミング、言葉かけ、支援の方法が変わります。
勿論学校ですから時間割に則って授業が進むので、一日の過ごし方も違います。
教員側とすれば、ある人的資源を活用して、日々頑張っているとはいえ、果たして、その環境は子どもが落ち着いて学べる環境と言えるでしょうか?
私は、自分しかいなくても、見守りしかお願いできる人がいなくても、率先してやりますという人がきても、安定した学校生活を考えて、全体的に質を切り下げています。ここは頑張って取り組もうという点については、日々の生活のなかでクリアできる形をつくる、見かけは優しくてもポイントはおさえている、ということで大人の事情に児童生徒が振り回されないようにしています。
なかには、子どもに手をかけていない、ちゃんと指導していないと批判する教員もいます。
が、それぞれの学級の事情、指導方針、指導観を共有する場も時間もないので、とにかく1人であっても、サポートの先生であっても、事故なく路頭に迷わず下校まで過ごせるように配慮しています。それが、「その仕事を全うすることを要求される」ことに対する私からの答えです。
https://magomago1.org/484nonregularmembercandomain202109/
前回は「484)特別支援学校 私が定年後、非常勤教員を選びたくない訳」でした。