医師・介護・看護 学校の文化 担任の先生より 未分類

511)特別支援学校 教員の「ごめんね」が誤学習を招く

日本人に多いと言われていますが、相手との摩擦を避け、円滑に人間関係を進めるために「すみません」、「ごめんなさい」という言葉をよく使います。一方、外国にでたら交通事故なんかにまきこまれた時、非を認めることになるから謝るな、と言われています。

同じ言葉でも発する人、相手、立場や状況によって意味合いが変わってくるのは分かると思います。これから話すことは、ここを確認しておかないと変な方向に流れそうなのでおさえてみました。

【児童生徒に言葉をかける】
「~君、ごめんねー」
「~君、〇〇してくれて、ありがとうー」

学校は個別対応の場所ではなく、毎時間授業をしながら進むところなので、待つ、他の子にも対応しなければならない、など状況が安定しない場所です。そのため、上記のような言葉がよくとびかっています。

言葉をかけることで、存在を忘れられていないことが確認できる、フォローがあるのでしばらく我慢できる、そんな気持ちになったりするのでしょうが、それは子どもによっても、状況によっても違うでしょう。

【俺は退屈なんだ】
肢体不自由部門の子どもは、良くも悪くも大人の目が行き届くことが日常になっています。常に大人に見られていることが当たり前になっている子どもで、ある程度「こうなったら、こうなる」の見通しがたつ子どもだと、「怒号(なんでいないんだ、誰か来い)」をあげると、大人が寄ってくることを知っています。また、「ごめんねー」と謝られるので、自分のしたことが自己中心的な態度であることに気づけません。また、児童生徒によっては自分の主張で大人が動くと王様になっていくことがあります

【大人の言い分】
以前は(今も多少そう思っていますが)、人間関係を築くうえで、お互いに気持ちよく生活できる態度や習慣を身に付けることが大事、いつまでも子どもだと可愛がってもらえる訳ではないので、キャラクター的に気にかけてもらえる人になることも大事、親はいつまでも若くて健康でいる訳ではない、ということを念頭に置いて指導すべきと思っていました。そのため、どんな児童生徒にも、同じような言葉をかける教職員に違和感がありました。

自分の気持ちを主張できることはいいことだ。
信頼関係があるから、周りに言葉をかけて知ってもらおうとしている。
人間関係はもちつもたれつ、許し、許されながら生きていくものだ。

自分の指導によって、子どもとの信頼関係が…と言っているようでした。中には、言葉を継続的にかけることで表情が豊かになったり、周囲の環境が安心できる場所なんだと認識できたり、はあると思います。しかし、ひとくくりの指導で誤学習をした子どもも含めて中学部、高等部、卒後の生活にシフトしていくのです。誤学習した子どもは、いつからどんな指導や支援によって、適切な人間関係やコミュニケーションをはかることができるようになるのでしょう?

大きくなるにつれて、いろんな壁にぶつかりながら、自己教育力を発揮して大人になっていくこともありますが、多くの特別支援学校の子どもは守られて生活することが継続されるため、周囲と自分のギャップに気づかされる機会に恵まれないことが多いと思います。そのため、教員は小学部の頃から適切な表現を学ぶ、我慢する時間を過ごすことができる、などを念頭に置き、目の前にある児童生徒はどんな子で、どんな指導をしていく必要があるのか考えたうえで方針を立てていくことが大事だと思います。