近年、学校現場にいて気になっていることのなかで、「保護者の期待に応える」、「保護者の負担の軽減」など、保護者の感情や事情を過度に意識したものが仕事として学校に入ってきていると感じます。
本来、児童生徒が「人格の完成」を目指して学校は専門性を発揮するものではなかったでしょうか?
学校や教員は子どもの方を向いており、保護者も子どもが集団の中で、社会の中で生きていくための準備段階を踏む場所として学校に対して一目置いていたように思うのです。今は、子どもよりも先に、学校の設置者が定めた仕事と保護者を見て仕事をするようになってきています。
【ところが】
「保護者が、学校でこんなことをやって欲しいと言っている」とします。
本来、担任は学級に在籍する子ども全員に対して責任をもつことが前提とされていますから、特定の子どもに寄りすぎて、他の子どもが学習する、または安全を確保する機会を損じてしまうもの受け入れ難いはずです。
ところが、管理職などは、「なんとか工夫してできないか」、「機嫌を損ねて関係が壊れるのはまずい」などと答えることが多いと感じます。そうして、「周囲と連携してやれない担任」、「保護者の要望を聞き入れない」といったネガティブな評価で圧力をかけがちです。(だから、言われないよう、波風をたてないように、進んで仕事ではない仕事を受け入れる教員が増えます)
児童生徒について、やったことが不適切でも、容認されるなら「やってもいい」と誤学習して、集団生活に合わない行動を強化させていくことがあります。小学部では保護者と児童に対して距離感が近く、フレンドリーに処理してしまうため、他者との距離感をとることが苦手、対話するほど余裕がない保護者の中に「学校は行政機関の1つで、訴えを聞き、それを忠実にやる場所だ」というラベリングを行って、依存してしまう方がいます。(モンスターペアレンツの一部もここに含まれると思います)
この距離の近さと個人主義が、中学部・高等部の集団や卒後の生活を意識した指導の足を引っ張ることになります。
【学校は何をするところか】
学校の役割、学校の基準が曖昧になってきています。
基準がないことは依存を強化させ、受けとめるはずの教員を疲弊させていきます。
保護者の顔色をうかがって媚びるようになってきた教員が、子どもにとって頼りになる大人であることを示せるでしょうか?
子どもは社会的に、人間として未熟な存在です。
大人が自分の背中や生き方を見せることから逃避していいのでしょうか。