もうすぐクリスマス、お正月になりますね。
聞くところによると、フィリピンでは月の最後に「ber」がつくと、クリスマスの準備を始めるらしいです。9月から…?なんと気が早いと思うのですが、そんなに早く始まると本番になる頃にはガス欠になりそうです。
特別支援学校でも、生活単元学習などの時間に季節の行事や自然などについて扱います。クリスマスもその一つですが、「うちは、キリスト教じゃないので、参加させないでください。」なんていう要望が出されることがありました。
もし、あなたが担任ならどうしますか?
「参加しない人は別室で過ごしてください」とか言えます?
クリスマス関連のグッズの準備、飾りつけ、パーティーなどの場になるたびに、教室を移動する?
このような保護者の宗教に関する配慮について、「宗教を信ずる又は信じないことに関して、また宗教のうち一定の宗派を信ずる又は信じないことに関して、他宗教ないし他宗派をそれと認めつつ、侮べつ、排斥をしないこと、ゆるしいれることであり、さらに反宗教者に対しても寛容の態度をとること」と書かれています。
ということは、別室に出すなどは排斥にあたると思われたらアウトな訳で、そうなると選択肢は「実施しない」ことになります。クリスマスなどを取り扱わないことで、宗教の違いによる摩擦はなくなる。それなら摩擦のない雪遊びやお正月の準備に早々に入ったらどうか、ということでしょうか。
それはどうも違う気がします。言っていることは分かるのですが、日本では宗教色よりもイベント色が強く、信仰心を強要するものではないと思います。個々に価値観の違う学校などにおいて、「私は違う」を尊重し続けるとどうなると、当たり障りない平板なものが選択されがちになると思います。そうなると、個々の違いを尊重する場が否定されることにならないか?と思いました。
【大多数が批判しないもの、認めているものが正義にならないか】
例えば、体罰ですが学校教育法第11条には体罰の禁止について書かれています。
今、体罰を行った教員が処分された、体罰によって子どもを死に追いやった、などのニュースが頻繁にでています。しかし、30年~40年くらい前も、この法律があったにもかかわらず、教員は罰する手段として日常的に体罰を行っていました。テレビドラマの教員も「愛のムチ」のように生徒をボコボコ殴っており、それを熱血教員として憧れたりしていました。
私見ですが、学校教育は集団と社会を意識した学びの場であるが故に、強い意見や、大多数が推奨する価値に振り回される傾向が強いと思います。そうして、物事の本質を問うことなく、時代の流れに合った側面を本質として捉え、推奨する傾向があるようです。
【個と公共、どちらも大事な価値】
クリスマスという行事は日本の季節の行事として根付いた文化の1つです。街には音楽や飾りであふれ、その雰囲気の中で生活しています。私が好ましくないから、街からクリスマスを駆除しろなど、叫んでいいのでしょうか?学校は社会の縮図、社会に出る前の練習の場、などと言われますが、クリスマスという行事を通じて、必ずしもそうではないかもと思いました。
学校は公共でありつつ、時として私的な感情が優先される不思議な場所です。