研究授業は、メインで授業をする授業者の授業をつくる力を伸ばすため、授業を観に来た人が他人の授業を観ることで「客観的に授業を見つめる」ことになり、これもまた自分の力量を高めることにつながります。臨床にいたときも、研修会で患者さんの治療場面を観ながら、これは何が原因だろう?このときの促し方が良かったよね、などと言いあったものです。
他にも、研究会など学校の取り組みとしてアピールするなどの目的もあるでしょうが、それが現場ズレしておらず、直接指導を行うために有益であったほうがいいことは言うまでもありません。
【決められた研究授業】
分掌の「研究部」から、教員全員は1年に1回研究授業を行うとブチあげました。
提案は分掌会議を通して、管理職に話がまわり、「やりましょう」となりました。
これに対して、教員の評価は懐疑的で、不評なものでした。
なぜかというと、この学校では普段から人手不足が蔓延化しており、1人欠けると指導体制が維持できず、学年や学級で、とにかく安全に子どもを抱え込む、というのが常態化していたのです。
研究授業は見せるもので、指導の体を為していない日常で、どんな絵を描けというのか?
管理職としては、「自発的に授業をする能力を高めようとしている、ういやつじゃ。」
研究部としては、「これで今年度の分掌の成果が出せた、ヤレヤレです」
つまり、研究授業実施を決めた人は何もせず、勝手に決められた人の仕事を増やしている構図です。
教員同士、授業を見合って隣の学部や学年の様子を知り、授業の引き出しを増やそうというものではありません。
職員の朝の打ち合わせで、「〇〇学部の〇〇先生の研究授業が10時20分から、2階の2年1組教室で行われます。お手すきの先生は参観ください。」などとアナウンスされていました。しかし、私自身、他の授業を見に行くなんてありえないクラスの事情がありましたし、その他の教員もそんな感じでした。実際、授業を観にきたのは管理職と研究部の教員だけで、他の教員はほとんど見られませんでした。
「これじゃ、まるで管理職の人事査定のネタに使われているようなもんだね。」
授業が終わって、参観してくれた先生のコメントを見る、管理職から御指導頂きに行きましょう、などと言っていましたが、ぱっと観にきただけの人が、自分のいる学年のことなんて、理解できないでしょう。
【やってみてどうだったか】
実際見にいくことはできませんでしたが、校内にいる教員1人ひとりが作成した指導案に目を通すことだけはしていました。授業ごとに、その先生は何を大事に考えているか、子どもをどんなふうにみているか、その先生の子どもを見る力量はいかほどのものか、などについて知ることができるからです。
しかし、それ以外は残念な企画だったなと思います。
誰のための研究授業かはっきりせず、やっただけのアリバイを積み重ね、後の自分に大きな影響を与えたかといえば、そうでもありませんでした。やって、まったく意味がないものはない、と言われますが、これについては労多くして益少なし、でした。