授業について教員同士で語るときや、子どもの指導の方向性について語るとき、「これが正解という訳ではないと思うのですが」と前置きを聞くことがあります。
確かに、誰かにとっての正義や、他の人にとっての悪であったりしますし、ある人が立てた指導方法が、その他の教員にとっては同調し難いものであったりすることがあります。そのため、「これから出す意見は、あなたの考えるものと違うかもしれない。ここで議論は交わさないけれど、とりあえず私の意見を聞いてくれ」ということだと思います。
これを聞いて、反論や疑問を出すと「それでも真っ向から反論や難癖をつけて噛みつくのか?」という目で見られます。いつか書いたことですが、「教員は互いの専門性を尊重し、批判や干渉しないことが職員室文化である」ということから、多くの人は黙って聞くのです。
【縮小する多様性】
授業を作る時、十分にないお金、時間、マンパワー、余力、経験則、知識などに不安をかかえつつも、職務として降りかかる役割を遂行せねばと努力すると思います。なんとかできたもので、のりきったと思ったものが、1人の賢者(?)によって無遠慮に蹂躙される。どのような意見であっても、それを受け入れることができるだろうか?
多くの教員は授業づくりや表現に感情を込めます。これが私の教育者としての思いで、授業はコミュニケーション手段の1つであるかのように。これだけを前面に出されると、気持ちを傷つけることを避け、意見の対立によって職場の人間関係を壊すかもしれないと沈黙を守ります。その結果、授業の発表者と、権威ある人の意見しか聞かれなくなります。これによって、その他の教員の教育観や指導の引き出しを聞く機会(多様性)が奪われます。
【確認したいこと】
意見を聞く側、出す側の両者に確認したいことは、授業のなかで見られるものが、誰に対してどんな影響を与える、その結果どうなるか考えることが大事で、一緒にそれについて意見を出し合おうということということです。決して「相手の人格や教育観を否定するものではない」ということが確認されていることが大事だと思います。
よく、目標と授業の手だてが一致していない、ずれている、ある重大な副作用を忘れているのではないか、といった意見を聞くことがあります。これも、授業者(聴く側)にとっては苦しい意見だと思うのですが、「そういう考えもありますね」では済まされない強さが感じられます。それはなぜかというと、授業のある部分(観点)を取り出して、科学して、考えに基づいた問いだから、だと思います。
「このまま、この授業で行われている指導目標を信じて取り組んで、どうなると考えているのか?」
「それを大事にすると、こっちが成り立たなくなる。なぜそんなリスクを抱えてまで取り組むのか?」
このような問いに答えられるには、指導を作る時にでてくる多くの「なぜ」について悩み、自分なりの主義主張を言語化できていることが必要だと思います。そのため、「〇〇先生から、こうするのがいいと御指導頂いたものだからです」、「とにかく私はこれがしたいんです」のような他力本願とゴリ押しは好きではありません。(分からなくもないですが)