学校の文化 担任の先生より

579)特別支援学校 生活の営みを深める時間のはずだった、総合的な学習の時間と生活単元学習

特別支援学校にかかわらず、最近の学校には耳慣れない言葉がたくさんでてくるようになり、学校とかかわりの少ない人にとっては、「なんですか、それ?」と思えるものが多数存在しています。

【例えば】
例えば、総合的な学習の時間、というものについて、令和4年の文部科学省のHPでは、「総合的な学習(探求)の時間は、変化の激しい社会に対応して、探求的な見方・考え方を働かせ、横断的・総合的な学習を行うことを通して、よりよく課題を解決し、自己の生き方を考えていくための資質・能力を育成することを目標にしていることから、これからの時代においてますます重要な役割を果たすものである」と記載されています。

生活単元学習、というものについて、学習指導要領では「児童生徒が生活上の目標を達成したり、課題を解決したりするために、一連の活動を組織的に経験することによって、自立的な生活に必要な事柄を実際的・総合的に学習するものである。生活単元学習では、広範囲に各教科等の内容が扱われる。児童生徒の学習活動は、生活的な目標や課題に沿って組織されることが大切である。」と記載されています。

【理想】
「狭い所から広い所へ、浅い所から不快ところへ、一方向から多面的に」

人は興味関心のあることや、やろうと決めたことに対して注意を向け、行動し、記憶し、理解を深めることで多様な判断や選択ができるようになります。総合的な学習の時間や生活単元学習は、そのような行動につながる学びを提供する時間のはずでした。しかし、学校では理想とは裏腹に、それほど盛り上がりを見せていません。

現代の子どもたちは、完成したものを取り扱うことに長けており、最適解を出すことも得意です。その反面、感覚や運動を伴う経験的な学習が積めていないと感じています。マッチ棒をひたすら積み上げながら、「あれはなんでかなぁ」、「もっとこうすればよかった?」、「こんなこともできたかも」、「やっぱり自分にはできないよな…」などと、頭の中をぐるぐる回して考えるような時間はどれくらいあるでしょうか。

生きていると、理屈に合わない、自分の尺度だけではどうにもできないことが多々あります。いろいろな角度で物事をみて考え、判断することは大切なはずなのに、なかなかうまくいかないのです。

【年間指導計画にない】
総合的な学習の時間、生活単元を正直にやると、子どもたち主体で疑問に思うこと、興味関心のあることからテーマを見つけて学びを深めることになるのでしょう。しかし、学校には年度始めに「指導計画」が作られ、何に何時間かけるか報告しています。そのため、子どもの興味関心は後付けで、計画に沿ったものにしてください、が建前です。年度途中で必要な物品がでたので申請すると、「それは年間指導計画のどこに記載されているんですか。報告した計画通りにやってください。」と管理職によって却下されることがあります。

模範授業で、「生活単元学習」などが発表されますが、その一コマを作るために教材づくりを何日かけてやったの?と思えるものばかりです。それはあくまで見せる授業で、その他の授業を放棄するか、校務分掌などを放棄するか、鬼のように自発的なサービス(世間でいう残業)を入れないとできないでしょう。

その結果、当たりさわりのない、毎年やっているような恒例の内容が繰り返し授業で取り上げられるようになります。時々、「教員は型どおりのことしかできない」、「言われたことをやるばかり」と批判を浴びますが、教員の仕事は私が思っていたようなクリエイティブなものでなく、枠のなかでどれだけできるか計算できることが必要でした。

ここでも、公務員、専門家、教育課程、予算、実際の学級経営といった観点が抜け落ちて、教育学者の理想で走っている感が満載でした。私としてはそうではなく、5分でできる授業準備、効率のよい授業づくり、などのモデルが必要で、質も大事だと言うならば、相応の授業作りができる環境を保証すべきです。それができなければ、過大なものは求められないと諦めることが大事です。