先日、老人介護に関する実態が分かるかなと、図書館で本を借りてきました。
「ユニットケア白書2004~自分らしい暮らしを実現するためのユニットケアの可能性~」(筒井書房、2004)という本で、実務的な技術や知識が得られたらいいなと読み始めました。
序盤のところで、なぜか学校が登場し、著者のディスりが炸裂していました。
話の流れとして、まず老人介護の現場について、「いくらいい入所施設と言われているところでも限界があります。集団生活をする以上は一定の規律がないと職員がやっていけません。(中略)そういう状況で「あなたらしい生活が施設でできますよ」というのは真っ赤なウソなのです。」と述べ、「生活のしづらさを感じたときにどういうサービスをつくっていったらいいのかということだと思います。」などのような意見が述べられていました。
理想としては、まず枠組みつくるのではなく、利用者さんが何を求めているか把握したうえでサービスを考える、ということかな?と思いました。
【本書の中で述べられていたこと】
その後、お金と地域力について話が進んでいきます。このなかで、学校の先生に関する話題がスタートしました。
「率直に言うと学校の先生は頼りないなあと感じることがあります。たとえば、学校で総合学習の時間、障害者のことを話してくださいと頼まれて、私たちが学校で話をすることがあります。その時間を使って先生たちは、思いやりとかやさしさを学んでほしいというのです。ところが障碍者問題や高齢者問題や差別問題は人権問題であって、やさしさと思いやりだけでは解決できないのです。人権に対する視点が先生たちには欠けています。」
(中略)
「総合学習の時間に地域の人と一緒の勉強会を開いてください」「生徒と地域の人が一緒に勉強しませんか」と提案するのですが、なかなか理解してもらえません。」
【似ている】
これを読んでいて、学校のことがよく理解されていないんだなーと思うのと同時に、医療職が学校を支援するときに感じる不満と似ていると感じました。
専門家の忠誠心は対象者(子ども、高齢者)にあります。対象者がよりよく生活してもらう地域をつくるために、学校を介して子どもたちに訴えていこう、もっと課題を共有しようと考えたのだと思います。ところが、学校の先生は地域の課題として一緒に取り組もうという気概がない。
ならば、活動を通して高齢者と地域の子どもの活動を通して触れ合う機会をもとう、存在を確認しあう機会をもとうと考えました。ところがこれも腰がひけて動かない。学校って、地域の中にいて、なんでこんなに意識が低いんだ!と怒っちゃった、という感じでしょうか。
では、学校の先生からしたらどうでしょうか?もしかしたら、老人介護の専門家にきてもらうのは、専門家の意見を聞いて、課題を共有しようではなく、老人福祉の話は教材であって、そこに含まれる意味や価値を学ばせたいと思っていたなら、専門家の提案はそこじゃないんだよな…と思ったかもしれません。また、子どもの前で高齢者福祉に関する公に関する問題点が示されたりすると、一行政の学校として適切な指導が行われたかと問われるかもしれません。
勉強会についても、一応教育課程で時間割が決まっていて、時数も管理しなくちゃいけないから厳しいな…。
人が入るということは、書類を作って、会議で調整して…また仕事が増える。
リスク管理や個人情報についてどうするか確認しなくちゃいけないかな。
先方の施設や利用者さんの家族への許諾もどうするのか確認しないとできないぞ…。
など、これはいいからやろう!と動き出すには、学校の組織運営は複雑だということを前提に、まずはお互いに何を求めているか、何が共有できるのか、話し合っていく、それがないので「学校は頼りない」という主観的な批判がでて、出版物の中で展開されたのだと思います。
多様な価値観とニーズの中で、万人に満足してもらえる組織運営は不可能です。それでも何かを実施して、1つ頑張れば、もっとこんなことをして欲しい、更に頑張れば何が足りないと意見がでる、の繰り返しです。この過重負担のスパイラルをとめるには、何をどの範囲で行うか、タスクが増えればどこを省くか、といった確認が必要です。