学校の文化 担任の先生より

676)特別支援学校 知の愚明(ぐめい)

YouTubeの、ニューズピックスの中にある、落合陽一さんのコーナーがあって、そこに、あのガンダムと言えば、の富野由悠季監督が出ていました。

監督は、今は何でもスマホを使って調べられるので、百科辞書を持ち歩いているようなもの、それで利口になった人間がどれだけいます?と問題提起されました。

また、「翻訳できるスキルをつけたいと思っていて、結局それはできなかったんだけれど…」とおしゃっていて、落合氏が、自動翻訳を使えば、考えなくてもできますねと返すと、「そうなると、人間の中で翻訳する回路が、人の中から喪失するんですよね」と。

当たり前のように使っているツールが使えない場合、今あるもので代用できるか?となりますが、それができるには知識が必要で、それを柔軟に使いこなすリテラシーがないと形になりません。柔軟に対応できる自信がなく、もしこれがダメだったときは、今ある状況で、どう対応するか考えられる頭が必要です。

簡単な例を挙げると、血圧計はどうでしょう。今の血圧計は手首にまいて、スイッチを押すだけです。しかし、血圧計がうまく機能しないときはどうするかというと、マンシェットを巻いて、空気をシュカシュカいれる血圧計をもってくると思うんです。高度になって、操作が簡単になった機械、しかし、それを使う人間そのものは、それについて成長しないどころか巻いてスイッチを押すだけという、意味が分からなくてもできる作業にはまってしまっていると考えさせられました。

【意味を考える】
アウトプットの華やかさ、楽しさに意識が向き過ぎていないだろうかと思っています。

児童生徒が自分のできる範囲を知り、そのできることを有効に発揮することが理想だと思うのです。

そこにたどり着くには、児童生徒の意思や心身の状況、周囲の人的・物的環境をどれだけ把握できるかにかかってきます。

支援者自身、子ども自身でどれだけ分かって、どう工夫できたかより、最終の「できた」に気持ちが向き過ぎると、途端にそこに至ったプロセスや意味が色あせていきます。今の将来にとって大事なことは、どんなことに取り組んできたかという過程と、指導方法と意味づけ(指導の根拠)、価値(そこを頑張らせた意味)だと思います。

子どもの実態が成長や年齢によって変わってくると、同じ指導方法では成り立たない問題がでてきます。そこで再評価して意味と価値を見直して、今に合った指導方法にシフトさせるという「意味のある柔軟なバトン」が必要です。バトンである以上、翌年、その後のことも意識して形づくられるものが理想です。

【バトンの重み】
引継ぎのバトンは、数が多くて受け止めることが大変ですが、受け取った先生が同時に複数のバトンをもつ訳ではないと思います。必要なときに、必要なバトンを取りあげて、それをもって走るはずです。

そのとき、経験や経過、意味が分かるバトンなら、受け取った人の判断で使いこなしやすいはずです。

方法を教えるバトンではなく、並走してくれるバトンのほうが、よくないですか?