「スポーツジムに、退職した先生がきている」、親から、そんな話を耳にしました。
彼は元教員で、物腰丁寧だけれど、なんだか違う…と感じたそうです。
何が違うんだと思って、いろいろ話を聞いてみたら、「見られていることを前提に、キャラをつくっている」ことが違和感の元凶らしいです。
よく言えば、スキがないように言葉や態度を選んでいる。
悪く言えば、本音が見えにくくて、とっつきにくい。何だか人を見下しているように感じる。
総じて言えば、親近感のわく人ではなく、他人行儀で壁がある感じ。
これが、教員が退職後に周囲の人と交わり難い理由の1つといえるのではないでしょうか?
【社会を知らない】
教員は社会を知らないといいますが、教員のいる職場環境も社会の1つですし、地域社会と関係しながら活動しているので、知らないという訳ではないでしょう。
では、そう思わせるのは何でしょうか?
社会といっても、無職の方も学生さんも、政治家も、建設業、販売業、不動産業、農業、畜産業など様々です。
おそらく、これらの社会を形成している人たちが公約数としてもっているものを、教員はもっていないことが多いのでは、と仮説がたちました。
それは何かというと、(失礼にならない範囲で)スキを見せる、懐に飛び込ませる、または飛び込むかけひきではないかと思うのです。教員としてのプライド(今の若い世代にはなさそう)や、服務を意識した態度は退職後の人間関係の障壁になると思います。
田舎では、いまだに退職した人も含めて、「先生」と呼ぶそうです。それは教員を尊重する敬称であると同時に、いまだに別物という揶揄も含めた蔑称かもしれません。「さん」になれないうちは、社会を知らない、社会にとけこめない人種として扱われるのでしょう。
【60歳以降】
年金制度について、60歳から年金がおりていたうちは、潤沢な退職金と年金を頼りに、多少空気の読めない人であっても生きていくことができました。しかし、再任用があるにしても、一旦60歳でキャリアは終わります。
残りの5年をどう生きるか?
社会を知らないと言われるレッテルを覆せるような社会性を身に付けることができるでしょうか。それは長年教員をしてきた私たちの課題です。
逆に、若い教員世代は地域や保護者の顔色と、組織のルールに則って行動することが求められるので、大人としての主体性や自我がどう育つのか気になります。「いい顔をして、器用に物事をこなすけれども、あの人自体がどんな人か見えにくい」と言われないかと危惧しています。