学校の文化 担任の先生より

696)特別支援学校 職場で感じる「自分の時間」

仕事が終わって、スポーツジムに来ました。エアロバイクをこぎながら、今日も含めた仕事のことについて整理したり、仕事と関係ないことを考えたりして頭をリフレッシュさせています。

周りには、同じように運動に勤しむ人々、彼らも同じようにカロリーを消費していますが、交わることなく個々の活動に没頭しています。

ふと、この雰囲気というか、この状況はどこかで感じたことがあると思っていましたが、ありました。

それは、学校の職員室でした。

【学校での仕事の展開】
勤務時間の開始は、おそらく8:30頃で、職員朝会のようなもので無理矢理スイッチを入れる感じになります。

その後、児童生徒が登校して、下校するまで授業などで集中力を使い続けます。

下校後、会議などで退勤時間まで時間をつかいます。

そうして、退勤時間から児童生徒や同僚などと持続的にかかわらない、自分の仕事の時間がくるのです。この自分の仕事の時間というのは、やっていることは授業準備などの仕事です。退勤時間を過ぎているので、教員が自主的に残ってやっていると言われていますが、仕事です。

仕事をしていると自覚していても、感覚的には自分の裁量で動けているので、気持ちの上では奇妙ですが自由な時間のように感じられるのです。そのため、その延長線上で同僚と話ながら教材準備をする時間も仕事なのに、これもまた「解放された自由な時間」のように感じてしまうのです。

それはちょうど、スポーツジムでエアロバイクをこいでいて、こぎ方や、こぐスピード、いつまでこぐかは自由裁量だという時間に似た感覚があるのです。

【働き方改革】
この時間をどう解釈するかですが、同じことをしていても、労働という感覚が麻痺してしまった時間のときがありますし、締め切りなどに追われて強要されているかのような切迫した労働と捉えているときもあります。

同じ内容で、同じ時間を過ごしていても、やっている側の感じ方により身体的に、精神的にかかる負荷は随分違います。それでも、現在では教員がどのように感じていても、「労働ではない」とされている状況です。仕事がどんどん増え、締め切りや準備に追われていくなかで、教材研究は想像力を働かせる時間ではなく、明日の授業を準備しなければならない「追い詰められる時間」として意識されることが強くなると思われます。

この状況で、授業の質が高まるのか、教員の個性が発揮できるのか、授業改善が進むのかという疑問が残ります。

そのため、教員の働き方について、勤務時間の圧縮でも、給与などの待遇の改善でもなく、どの範囲を教員がカバーするか線引きをして、授業で勝負する教員の専門性が尊重される枠を守ることが大事では。

教員の仕事がジェネラリスト的ならば、やたらと質を求めるべきではないし、専門家集団的というなら、つきつめて物事を考え、授業を創造する時間と資源を与えるべきでしょう。それらがどれも中途半端なので、教員の仕事の魅力をあえてアピールしなければならない状況に陥っているのだと思います。