担任の先生より

698)特別支援学校 雑談、していますか?

夏休みの教室で、教材づくりをしている先生にからんでいく話を先日書きました。

何かしなければならない局面、子どもが学校にいる時間、会議をしている時間は、目の前のことをすすめるための会話があり、合理的な方法が選ばれます。

その話題、その指導方法が通用するのは、目の前の子どもに合わせているからです。

子どもが変われば、授業内容が変われば、同じ手はほとんど通用しません。

タスクに追われている時の活動や会話は経験になりますが、多くは教養を含んだ学びにはなりません。

教養につながるのは、対話できる空間があり、それぞれがもっている内なる言葉を聞いたときではないかと思いました。それは、学校ではなく、自分の親とサイダーを飲みながら、グダグダ話しているときでした。

あの時は、あんな思いでやっていた。

実は、あの時こんなことを心配していた。

今、こんなことに悩んでいるんだ。

実は、こうしたほうがいいと思ったけど、理由があってここまでしかできなかった。

そんな話のほうが、いつ使えるか分からない小手先のテクニックよりも、物を見る目、考えて動く大切さを知ることにつながると思いました。

学校でも、あの時はこの指導をしていたけど、実はこんなことを狙ってやっていた。

その指導を選んだのは、この目標のために、こんなリスクを抱えることを受け入れた。

あの時は、こんな指導をしたけれど、これに気づいた今なら、これをする。

自分は、子どもにこうなって欲しいと思って、この指導観で勝負している。

まー、時間がなければ、ここまで話せないです。

年長の先生が退職し、40代の先生は採用を絞られて少ない昨今、20代~30代の先生も優秀ですが、テクニック優位であることは否めません。深さと柔軟性を必要としたとき、大切なのは指導観と教育分野的な教養です。

たまに、話が長いばかりの人もいますが、この夏休みは誰かと時間をかけて話をしてみてはいかがでしょう。

いい話、痛い話はありますが、教員生活だけでなく、人生の糧になる言葉や経験に出会うことができます。

休むことも大事ですが、脳に栄養をあげることもやってみてください。

このブログは、そんな要素も意識して混ぜ込んでいるつもりでいます。

そうなんだという気づき

それは違うだろうよーという批判や拒否

そうだよねという共感

すべて読み手の栄養になります。ぜひ、本音と内面を引き出して、聞いてみてください。