担任の先生より

703)特別支援学校 「公共のもの」という意識

先日、経済的に厳しくて、女性の生理用品を配布することについて話題がでていました。

話題がでたときから「女性のものだけ配布」になるので、男女不平等がでないかとか、誰が管理するのか、管理責任は誰になるのか、といったことが気になっていました。

結果、持って帰る人続出で中止。

【なぜだろう】
日本人全員がそうだとか、個人の感じ方の違いだ、などと言われればそれまでですが、どうも日本人には「みんなもの」という意識が働けば謙虚で慎ましやかになるけれど、お上から降ってきたものと思われたり、責任は自分以外にあると思われたりすると、途端に「強欲」になる傾向があるような気がしています。

花見などで管理者がいて、自分はただの利用者だと思った人などは、ごみを投げ散らかす、ゴミ箱からゴミがあふれても気にしなかったりすることがあります。ところが、その花見についてボランティアになったり、自分の町内での開催だったりすると、とたんにモラルある顔がでて行儀よくなったりします。

試合のスタジアムでも、ごみを拾う日本人が出現して、海外で賞賛されたりしていました。あれは、みんなで応援したみんなを意識しているからだと思います。

【強欲?】
ところが、その場に当事者意識や帰属意識を感じていない日本人は、途端にマナーが悪くなります。一個人としての欲求が優先され、我さきに奪い合う姿がニュースなどで散見されます。

【学校はどうか】
子どもが属する場所、大人同士で子どもを支える場所、などと感じている保護者は比較的協力的で、個人的な欲求をぶつけてくることが少ないように感じます。ところが、公共の提供されたもの、福祉として当然だと感じているような保護者は、比較的個人的な要求が強く、主観的な価値観を押しつけてくることが多いと感じます。

そうなると、子どもだけでなく、地域や保護者の方々に信頼される学校づくりが必要ですね、という話になります。確かに、地道な対話によって、学校に不満をもつことが多かった保護者が協力的になったケースはありますが、どこまで価値観が変わるかは当人の気持ち次第なところがあります。

不満が止まらない保護者に対しては、不満を予見し過剰サービスに走る、やるだけやってみてクレームがでたら謝罪する、が日常的になっています。そのたびに、文句を言ったもの勝ちか、普通に役割を果たしている保護者にどう説明するのか、何をやっても機嫌を損ねるたびに教員は叩かれるものなのかと考えます。それで、学校への信頼が生まれるかというと、私は逆で、「言えば学校は言うことをきく」と消耗品としての教育サービスを捉える「負の強化」につながることが多くなると思います。

生理用品の配布もそうですが、物事を決めるときはルールや基準を決めて過剰サービスをしない、予見できる課題について対応策を準備する、などが必要だと思うのです。