ヤフーニュースのなかで、「担任の先生が『未定』『給食時間に交代』。深刻化する教員不足、教育学者らが『公教育の質が危うい』と警鐘」とでていました。
ここでは、教員が足りなくて、予定していた人数を確保できていない現状を挙げ、教育学者らが記者会見をして、「教員不足を放置すれば、公教育の質が危うい」と訴えたそうです。
【質って何?】
この記事を見ていて、ちょっと違和感があったんです。
人がいないことが、質なのか?と。
どちらかといえば、質よりも量の問題ではないか、ということです。
しかし、よく考えてみると、質ともいえなくもないと思いました。
それは、学校教育現場目線でなく、制度に則った学校を運営する目線になると、確かに質だよなと。
更に考えてみますが、保護者などの公共サービスとしての学校を利用する立場からすると、質とは細やかさや緻密さを指すのではないか、です。
個別対応を飲み込み、宿題プリントを作成してフィードバックを与え、逐一「いかがなさいますか」とお伺いを立ててくる、などのサービスを積極的に行う学校のことです。この目線からだと、教員の数さえ揃えば、質は補完できるんだな?と見てしまうのではないか、ということです。
【表現】
最近、教員の働き方や、学校の運営についてニュースや各種の記事がでてくるようになりました。
これまで、知られているようで、実は見えていなかったというブラックボックスのような公立学校の仕事。まずは現状を把握することは歓迎です。
しかし、このまま総じて現代の公教育はどうあるべきか考えることを抜きにして、「これが問題だから、こう」のようなツギハギだらけの改善策が打ちまくられないかと危惧しています。これをされると、本当に必要であろうことが解体されたり、見かけは華やかだけれど、運営上無理があることがねじこまれたりすることが頻発しそうな気がするのです。
教育人間学では、「一方向で物事を見ないで、あらゆる方向から物事を捉えてみること」を学びました。これによって、目先のことにとらわれないこと、自分が考える正義が必ずしもそうである訳ではない、ということを学びました。いま、公立学校に求められているのは、様々な問題を抱えている学校教育制度は、国から、教員から、保護者から、子どもから、過去から未来まで、これらをふまえて「公的なもの」としてどのように機能しているのか把握することではないかと思うのです。
何を捨てて、何を残し、何を付加するか考えること。それを機能させるために必要な枠組み(制度や人的・物的資源)は何か、棚卸をして考える。
更に注文をするならば、幼稚園、小学校、中学校、高等学校、専門学校、大学、特別支援学校、特別支援学級など、それぞれ抱えている問題が異なるので、教育や学校とひとくくりにせず、「主語」を大事にして報道してくれるようになったらいいなと思って見ています。