先日、保護者面談がありまして、いくつかの要望を聞きました。これについては、やんわりとお断りしました。また、先送りをして「指導に反映させて対応します」と「成果を出します」と言わなければならない状況から回避しました。
面談をしていて、すべてではないのですが、保護者が「分からない」、「できない」、「やって欲しい」、「こうなったらいいな」と思っていることについて、学校や教員サイドが「やってみます」、「やります」と安請け合いしてしまうのも問題だと思っています。
また、問題の原因が何で、それに対応できる能力の確認もせずに、「なんとか工夫してできないか」とゴリ押しして、対応は難しいと言わせない風潮は何とかならないかと思ったりしています。
【基本的なことを確認する】
まず、学校の中でさかんに取り上げられるようになった「自立活動」について、「障害による学習上又は生活上の困難を主体的に改善・克服するために…」と学習指導要領で記載されています。
障害とは、機能障害によるものもあれば、社会的環境などによって引き起こされる面があります。学校では、医療的ケアの実施、スロープやエレベーターの設置、スクールバスの配備など、充分かどうかは別にして、通学や学校生活にかかわる課題について配慮してきました。
しかし、学校は児童生徒の心身にかかわる機能障害について、治療するところではありません。医療機関でマンツーマンで対応し、検査して、投薬や外科的処置を施したとしても難しいことを、学校の教員が治療して、できるはずがありません。
これについて、「あくまで学校としてできることをしてください」、「指導要領の内容はそんなことを言っているのではない」と反論されるかもしれませんが、医療の専門性の導入、保護者の消費者意識の向上、学校の立場の低下は「学習上又は生活上の困難」は機能障害への対応を求めることにつながり、「改善・克服」を治療的な意味合いに捉えられたり、やるだけではなく成果を出すことしか認めない風潮につながったりしていると思います。
【無知ではいけない】
麻痺が強くて歩くこと以前に、立つことも難しい児童生徒の障害像に対応しながら、「歩けるようになって欲しい」と保護者面談で訴えられる担任の先生の気持ちは理解できるでしょうか。
唇を閉じることができず、咀嚼もせずに、食べ物を丸のみにしている子どもについて、保護者から「給食で普通職を食べさせて欲しい」と訴えられた担任の先生の気持ちは理解できるでしょうか。
医療職なら、科学的に評価したことを根拠にして、白衣の権威を使って線引きをして、次の外来まで機嫌を損ねずに帰っていただければ、と思うかもしれませんし、何より日常のリスク(実施責任)を背負うのは自分ではありません。しかし、教員は話を聞き、それを受けて対応することがセットになっているので逃げることができません。
面談では「ただ話を聞いてあげれば良い」、「気持ちに寄り添えばいい」と言われますが、立場上どうすることもできない教員は「対応しなければならないのか」、「やっていいのか」、「やってどうなるんだ」、「聞くだけでよいのか」と葛藤し、聞いていることの問題の所在や平和的な妥協案や解決策が分からないままに。「保護者と協力して実施する」と言わなければならない状況にもっていかれることがあります。
そうならないためにも、子どもがもっている「学習上又は生活上の困難さ」の原因は何か、人に言えるくらい把握することが重要です。それによって、学校で「できることはここまでと決める」、「いきなりやらせるのではなく、段階づけを踏む」、「どんなことを他職種と連携して確認すべきか分かる」につながります。
そのため、医療職に対しては、指導方法を聞くことよりも、「この学習上又は生活上の困難さは、なぜなんだ?」と事細かに確認させることが重要で、それ以前に、学校における指導をつくるプロである教員が、まるっと指導方法を他職種から聞いてしまうなんて恥ずかしくない?と思ったりしています。