工業社会を維持するために必要なこととして、「時間を守ること」、「命令に従順なこと」、「反復作業を嫌がらないこと」が流れ作業をする工業労働者に求められている資質だ、とされています。
学校はそういった均質な価値観をもつ労働者を作るシステムだから、あんなものは要らないという意見があります。一方で、子どもは集団の中で学びあうものだから、枠組みや学習内容にかかわらず、関わりあうことに価値があるという意見もありますし、知識や文化の伝承の場であるから必要だ、という意見もあり、私はどれも正しくて、どの要素も含まれていると思っています。
現に、学校は小学校からひとところに集められて、学区による集合離散などを経ながら中学、高校と多少のメンバーのボリュームや構成を変化させながら踏み台をつくりつつ、個別の価値や理想と、多少の現実の厳しさを感じながら大学や会社などの世界へと、えいやっと個々にバラバラになっていくケースが多かったと思います。
大学や大学等を卒業してバラバラになっていくということは、価値観だけでなく、個々の能力に格差がでてきて、ずっと同じ所で、同じことをするのに耐えられなくなる、ということでしょう。これだけ格差がでてきて、社会が高度化してきているとなると、「それに応える人材にしたい」、「能力がないと取り残されるのはイヤだ」、「落ちこぼれにしたくない」、「能力を発揮して、早く学校のような枠からでなきゃ」、みたいな不安と焦りが学校にプレッシャーをかけていくのは理解できます。
それが、「個別・最適な学び」、「個に応じた教育」、「キャリア教育」などの個別性の高まりにつながっていると思うのですが、残念なことに学校、学級、担任の主たる枠組みは昔のものと全く変わっていません。学習指導要領も教育課程も種類は増えましたが、取捨選択できるものではありませんし、取捨選択できる受け皿が十分にない状態です。
特別支援学校でも、子どもがもつ障害の幅が広がり、人数が増え、医療的ケアや医療的リハビリテーションの専門性が強く求められるようになり、アレルギーや事故防止、個人情報保護、などの配慮事項が増えています。
同じことをみんなで学び、そこで感じた自分の得意不得意やいろんな違いをふまえてどう生きていくか?という昔ながらの学校と、過度なまでに個別性と質を求める現代の学校を飲み合わせている状況だと思います。
現在、何でもかんでも仕事だとやらされて、勤務時間内に仕事が終わらないという教職のブラックなイメージの回復、やりがいのアピール、初任給の割増、働き方改革などが取り組まれています。しかし、それだけでは十分ではないと、教員免許更新制が行われる前に鼻息荒く言われていた、「教員の修士化」で資質・能力を補完させようという意見が文部科学省からでているとのこと。質の高い指導力と情報処理能力や問題解決能力があれば、時間が足りない、人手が足りないといった問題は少なくなると考えているのでしょう。
かく言う私も教育学で修士をとりましたが、そんなに飛躍的に何かすごいことができるようになる訳ではありませんし、高めたものを発揮できる環境にしてくれる様子もありません。状況はあんまり変わりませんが、大丈夫なのでしょうか…。
ドラゴンボールという漫画に出てくる天津飯というキャラクターが、分身して三人になって戦う技をもっていて、戦闘力などはそれぞれ1/3になってしまうという設定がありました。そんなふうに、それぞれが、それぞれのタスクを効率よくこなします、というなら質を高める価値がありますね。
【職員室の雰囲気の変化】
職員室の雰囲気はこの20~30年前のものと比べて、随分変化したと思います。情念(良くも悪くも)、感情的、人間味のある、多様な個性など、初期の金八先生がいた職員室の雰囲気が多少あったように思うのですが、今は効率的、組織的に仕事が進められる人が増え、あれこれと考えて、意見を交わすことが少なくなったと思います。教員に求められる資質は増える一方ですが、教員であり続けるために必要な資質はどんなものか、別だてで考える必要があると思います。それを受け入れられない、または到達できない教員が淘汰される時期なのかもしれません。
ただ、採用試験を受けられる場合は、職務を当事者意識をもって頑張ります、教員同士で連携して取り組みます、地域や保護者の理解を得られるようにします、のスタンスでないと合格しません。ここはあくまで校内の休憩所で繰り広げられる愚痴の場ですので、鵜呑みになさらないようお願いします。