Attachment(アタッチメント):不安をやわらげて安心したいという本能的欲求について、様々なところで議論されているようです。アタッチメントについて、どういうことかというと、「人とつながることで心を落ち着ける」、「信頼できる人とつながること」といわれています。
「こども大綱」(令和5年12月22日 閣議決定)では、アタッチメントについて、「乳幼児期からの安定した愛着(アタッチメント)の形成を保障するとともに、愛着を土台として、全てのこども・若者が、相互に人格と個性を尊重されながら、安全で安心して過ごすことができる多くの居場所を持ち、様々な学びや多様な体験活動・外遊びの機会を得ることを通じて、自己肯定感や自己有用感を高め、幸せな状態で成長し、尊厳が重んぜられ、自分らしく社会生活を営みことができるよう取り組む。」としています。
これを出しているのはこども家庭庁です。
【時代とともに変化する環境】
アタッチメント(安心できる関係)をつくるというか、それが自然にある状態というのが、だんだんと損なわれてきているように感じます。
そもそも、こんな言葉を使わなくても、あえてこれを意識して取り組まなくても、若者を持ち上げて舞台にあげるようなことをしなくても、不安をやわらげつつ生活できていたと思うのです。
かつて学校が荒れた時代、それを抑制するために熱血の部活や抑圧的な生活指導が行われました。
児童生徒の誘拐や、登下校時の事故などで、防犯対策が意識されるようになりました。
「みんなで」よりも「個に応じた」、「画一的な教育への批判」など、横並び意識の否定や排除。
安心・安全のためと、他者との垣根やバリアをはることが指導に多くのってきている。
大人は仕事に追われ、こどもの居場所を見守れない(公務員も会社員も、父も母もみんな)
核家族、単身世帯の増加
就職など進路に関する不安
(相談など)聞いたら、対応しなければという緊張感のある人間関係
今のままではマズい、そんなことで言い出されるようになってきたのがアタッチメントだと思います。こども家庭庁が言っているので、対象はこどもなのでしょう。しかし、安心して生活したいのは、こどもだけでなく、大人も同じだと思います。(切り分けて考えられることでしょうか?)
当事者中心はいいのですが、当事者のために支援する人を酷使していないでしょうか?
アタッチメント理論は、保護されているという安心感を得たとき、外の世界を探索することができるもので、これはマズローの欲求五段階説に通じるものがあると思います。高齢者も大人もこどもも、エッセンシャルワーカーも同じだと思います。
生理的欲求はどうやって満たしましょう?
安全性の欲求はどうやって満たしましょう?
社会的欲求はどうやって満たしましょう?
アタッチメントが必要だとする舞台にあげられる子どもたち、それはそれで大事なことなのでしょうが、その舞台を成功させるために、周りの人を食いつぶしてはいけないと思います。