担任の先生より

942)特別支援学校 足に合った靴より欲しいこと

最近、困ったなと思うことがあります。

どうも子どもたちが自分の靴が履けないのです。

どんな場面で履けないか、停滞するか、ですが以下のようなものがあります。

【履けない理由】
①足の甲の部分にかぶさる「舌」を引き出すことができない。(つまむ力が足りない)
②「舌」をおさえつつ、鳩目(左右の紐の穴があるパーツ)を出して、ベルトでとめるのが難しい。
③靴を履く姿勢が保持できない(端坐位からの前傾、片足をあげる、など)。
④靴が重い(子どもの筋力や姿勢保持能力の重いかなと感じる)。
⑤靴が大きい(靴の着脱がないとおむつの着脱ができない)
⑥靴を脱ぐ・履く、の手順が身についていない。

このあたりがネックになっていると思われ、困難さが多いということで介助すると、どうなるかというと

①靴は難しいから先生にやってもらうものだと決めてかかってしまう
②そもそも、靴を履くためにそんな手続きがあるなんて知らないでーす
③お願いすればやってくれるんじゃないの
④やれるところだけやればいい

こういったことになりがち、です。

【なんで大きい?】
履けない靴になりがちな理由は何かというと、子どもの靴を作成するにあたり

足部が外反して接地しないよう、足部を縦方向に立ち上げる
土踏まずができる足をつくりたい
足裏全体で接地できるようにしたい
履きやすいよう、間口を広くしてあげたい
立位・歩行の不安定さがあるので、地に足がつくよう、あえて重さをつけよう

よい歩行は機能的なネガティブさをカバーすることから、みたいな感覚を私もずっと持っていました。ところが、足部の身体機能面や、歩行などの基本的な身体活動を追求したら、重く、ボリュームがあがり、大きくなり、足にフィットさせるためにベルトなどが増えることが多いかな思うのです。

20年ほど前、学校で靴などを採寸するところに立ち会ったことがあります。「足のために、ここはこうしました。履くときに、ベルトをこの位置で止めて欲しいのですが、ちょっと難しそうなので、ここは先生が…」

みたいなことを、よく聞いたものです。保護者の前で、先生できるよね?みたいなことを言われると、「そこは難しいです」といったことは言いにくいですし、子供のために当然だよね、みたいな雰囲気があったと記憶しています。

【最近感じた違和感】
学校では日常生活の指導が行われています。登校し、靴を履き替え、教室に行き、荷物を出して整理し、水筒のお茶(水)を飲み、トイレに行き…といった一連の流れを把握すること、できることは自分ですること、で進めるのですが、重厚に作られた靴が、その流れを止めてしまいます。

足のためを思っては理解できます。しかし、仕様さえ変えれば停滞しないのに、なぜこれを?指の力が不足しているのに、なぜこのベルトを?両手を協調させて使えないのになぜこの構造?これだけ靴が大きいと、おむつを履くときに履けないから、トイレのたびに靴の着脱をする、みたいなことが頻繁に起こります。

学校では、全てではないですが、「自分でできない物品ではなく、できる物品を揃えて欲しい」という考え方があります。1人ひとりの介助に場面が変わるたびに追われていたら、集団の指導が成り立たないのです。

医療モデルから生活モデルと言われるようになって久しいです。医療で必要だとされるエッセンスを生活の中に盛り込むこともありますが、当事者だけでなく生活の営みにかかわる場所や所属、支援者のことを考えて、生活の中に参加するような医療(リハ)的な視点が欲しいと感じました。