不注意さ、姿勢反応の有無、体の支持性、筋力、複数の子どもが行き交うことなど、これらはすべて転倒やケガをする原因になります。
どこで進路を見失うか分からないときは、見守りながら声をかけます。
安定した足底接地が難しいときは、腕をとって支えることもあります。
歩きたくなくなったら、体を投げ出して床に座る子どもがいれば、周囲への影響も含めて側につきます。
事故の予見性を考えれば、どの子も「ゼロ」にはなりません。健常と言われる子どもや大人でさえも、不注意でどこかの角に膝をぶつけたり、頭をぶつけたりすることがあるのですから。
【信じる?信じない?】
自分で歩けるけれども、周囲への注意がもうひとつ…の場合はどうでしょう?
担任の先生の多くは、3人~6人の子どもが在籍する学級にいる訳で、誰かに目と手をとられたら、あとは希望的観測も含めて「自分でできそうなら、やってね」になることが多いです。ところが、そんなときに限って、転倒事故などが起きるものです。
かといって、ずっと手をつなぎ続けるのか、ずっと全員を一列に並べて移動するのか、どこまで安全に戻ってくると信じていればいいか、とても難しいところです。安全に過ごすことと、子どもの自主性や環境の把握に関する学習を積み重ねることが両立しにくいことが多いです。
【事故が起きた】
子どもが1人で歩いているとき、転倒しました。教員が近くにいようと、距離をとっていようと、止められなければ結果は同じです。
その子は病院に行きました。
どんな状況であれ、子どもの事故(結果論)があれば、担任の先生の指導のあり方や配慮の仕方に問題があるということで、謝罪や事故に関する書類などの手続きに追われます。どんなに明日の授業や行事の仕事がたまっていても…です。
では、どうすればよかったんだろう…と考えても、1人ひとりの子どもに付き添えない、という現実はさておいて、ケガをした子どもに対してどんな配慮が足りなかったか、今後どうしていくか、報告することになります。
どんな状況でもリスクをミニマムにして、指導の質を高めたいと思うとき、人が欲しいと思います。しかし、目の前にあるのは最低限の人数で学級経営とリスク管理に追われる毎日。こういった日常も教員を疲れさせる一因かもしれません。