学校の廊下を歩いていて、ふと他学年の教室をのぞくと、図工(美術)をやっていました。10名位の子どもが横一列に座り、その間に教員がぽつぽつと座っています。教員は4名ほどだったと思います。
【ぱっと見で分かること】
・子どもの人数と教員の人数からして、おそらく2クラスを合体させて授業を行っている。
・ある教員がAさん(仮)とマンツーマンになり、他の子どもとの距離をとっている。(他害か刺激を減らすためか、特に個別の対応を必要としているか…等)
・ほぼ横一列なので、手をかけるより目をかけること重視だろう。自立してできる子(聞ける・作ることができる)の割合が高いかな?
【教員の支援】
道具や材料の供給をしている先生以外は、比較的隣でやっているのを見守る、という先生ばかりでした。この集団を見て、感じることは人それぞれでしょうが、大きく分けて2つではと思います。
1つは、教員は見ているだけで、子ども1人ひとりへの個別の支援が行われていないという批判的な意見です。確かに、細かいところをみると、手の使い方、姿勢、目の使い方、手順を把握するための支援ができていないと思うかもしれませんし、忙しいならまだしも、見ているだけならやりなさいよと思うかもしれません。
もう1つは、子どもが主体的に活動しているので、それを尊重できている、自分で進められるだけの事前説明が行われているという意見です。教員が口を出し、見ている感を出すことで、何か間違っているのかなと委縮したり、自分で考えなくても、何か言ってくれるだろうとアテにしたり、課題以外ことでかかわりをもってもらおうとすることも考えられます。
【そもそも違うのかもしれません】
学校では、授業のなかで提案されている課題を把握できるか、行動にうつせるか、自分で考えて行動できるか、自分で継続して取り組めるか、どこまでできるか、どこまで習得できているか、といったことに関心を寄せることが多いと思います。
小にリハでは個別の場面が圧倒的に多いと思います。対話的に意思疎通や交流ができるか、どこができて、どこが難しいか、どのような手段を用いれば発達を促すことができるか、このへんがプログラムを作成するときの根拠や留意点になると思います。
【教員はどのような役割を負っているか】
教員は子どもの様子をみながら、どのように課題を進めているか、どこでつまずいているか、どこで支援の手を入れるか考えています。
また、目の前の子供だけでなく、横一列の子どもたちが遊出、転倒したりしないか、道具の不適切な使い方(危ないこと)をしていないか、いざこざを起こしていないか、他の子についている先生が席をたったときに事故やトラブルが起きていないか目を配る、などを行っています。
学習内容は年間計画に則った内容で、できればそれでよし、難しければ道具や教員の手で支援します。一人ひとりの子どもの発達課題をクリアすることを最優先にして、学習内容を作るのではありません。
是非はともかく、教科の学習において、指導目標を自立活動に寄せたものを入れると、「ここは算数の授業なので、算数の授業をしてください。これは自立活動ですよね」といった指摘が入ることがあります。これについては、場面や内容が許すならば、子どもにとって有益な目標設定をすればいいんじゃないか、という考えもありますが、業界的にダメみたいです。
【問題はないのか】
集団をひっぱりながら、目の前の子供を支援しながら、他の子どもにも目をかける、これが登校から下校まで続くので、教員の注意や体力が続く限り…という状況です。そこから更にもう一歩踏み込むのは、余程ニードが合致しない限り、なかなか難しいところだと思います。
ただ、手をかける、環境を調整するところで、「どこで手をかけるべきか明確」「目と手をかける労力が軽減される合理的な手だて」「便利な道具がある」「どんな手のかけかたが効果的か分かる」なんてことがあれば、その場面だけでなく、他の場面でも応用できる留意点になると思われます。
無我夢中でやって、そのなかで構築されたパターンは、多少合理的でなくても慣れで続けられてしまうものです。それはそれでいいのですが、タスクが多すぎて疲弊する、抱えきれないようなときは、誰かが協力して、負担感や無理・無駄のない方向にひっぱっていくことも時には必要だと思います。