担任の先生より OT・PT・ST

973)特別支援学校 作業療法の学会 作業療法の学会 自己認識モデル

研修会や学会では、新しい考え方や、検査、知識・技能に出会うことがあります

実際、新しいことや画期的なものはあちこちで紹介されていると思うのですが、聞く側が理解できないと、納得できるものでないと受け取られないのが実情だと思います。

新しいと思ったんだけど、よく見ると以前から知っていたこと、考えていたことを整理しただけというものもあります。が、そうやって引き出しをつくって整理することで、自分が物事を考えるときの観点になり、他者に何かを説明するときの材料になったりするので、これもまた貴重な出会いなんだろうと思います。

今回、印象的だと思ったなかに、Crossonらが提唱した自己認識モデルがありました。

【自己認識モデルの3階層】
これは、他では障害認識と書かれていることもあり、病識(びょうしき)と指導の妥当性を語る時に分かりやすいものだと感じました。

この3階層についてですが、以下のようなものがあります。

①知的気づき(障害があることを知っている)

②体験的気づき(ミスが起きた時に自覚する)

③予測的気づき(ミスが起きる前に対処する)

①は、病識がなく、配慮事項として留意できていない段階だと思います。支援者がいて、なぜいろいろしてくれるのか、介入してくれるのか分からないと思います。

学校でいうと、飛び出したり、転倒したりする可能性があり、手をつないでいるけれど、なぜつながれているか分からず、手をふりほどこうとする、などだと思います。常時支援を要するか、理由は分からないけれど一緒にいてくれてうれしいといった関係に陥るのではないかと思います。

②はミスが起きた時に、初めて自分はこうだったのかと体験的に理解できるケースだと思います。「~しないでと言われていたけれど、転倒してみて、初めてその意味が分かりました」みたいなものです。

予見できず転倒して初めて分かる、雨に降られて初めて傘が必要だったと分かる、などだと思います。学校では、失敗させない、事故ゼロ、安全・安心を前面に出す傾向があるので、予見できることは教員が先回りして未然に防止してしまいます。この段階の児童生徒にとって、適切な支援というのか、自分を理解する機会を阻害しているのか、解釈が難しいところです。自分の状態をふまえて行動する経験が乏しいため、子ども自身が移動する時の注意や配慮する観点に乏しいと思うことがあります。

③は廊下に飛び出したら接触事故に合うかもしれないので、ちょっと廊下をのぞいて確認するなど、自分の状態と、周囲の環境の様子、想定できる他者の動きを想定して行動できるということだと思います。この段階だと、「~したらどうなると思う?」「~してもいいのかな?」という問いが分かるんだと思います。

【学校生活での支援の中で活用できること】
この自己認識モデルが学校生活のなかで有用だと考えた理由は、以下の通りです。

「~したら、どうなるの?」
「~にならないよう、~してください」
「次は、何をするの?」

これらは、校内でよく使われる言葉掛けだと思いますが、ここで問われることは「予見性」です。事故を防止し、安全に生活する態度、他者と共存できること、これらに向けた期待感が、目の前にいる児童生徒にとって妥当な指導なのか、段階的に難しいことを求めているのではないか、と考えさせるものと思いました。

自分で考えて対応できるようになって欲しい、自分でできるようになって欲しい、その思いをもって教員は期待し、言葉をかけますが、それを受け取る子どもに準備ができないと、「適切な指導」になりにくく、教員と子どもにイライラ、ネガティブさを残すだけになるかもしれません。

教員にとって、「この範囲が妥当」、「この線引きでいい」、「できる段階かどうか」について考えるときの材料になればと思います。