少し前に見た「学校はまちがうところだ(2004)蒔田晋治」を懐かしく思い返しています。
この本は「まちがうことを恐れちゃいけない」「ほんとのものを見つけていくのだ」「みんなで伸びていくのだ」ということを言っています。
まちがうと、残念だし、恥ずかしいし、考え直すことが面倒だし、できないことを直視させられるし、とにかくネガティブな雰囲気がありますが、乗り越えようとするエネルギーがわく、取り組むことで自分がレベルアップできるかもという期待感がもてる、といったこともあります。
全体がそうだ、とは言わないまでも、現在は「失敗させない」「できた・わかった」が推奨される傾向があります。前に進めることが意欲をかきたてる、学ぶことを嫌いにさせない配慮をすることが適切な指導です。
そのせいでしょうか、指示待ち、枠組みが提示されるまで動かないし考えない、間違えると過度に落ち込む人が増えてきていると感じます。
【特別支援教育研究(雑誌)より①】
ある号のなかで、「失敗に対して圧倒的に耐性の少ない生徒にとっては、試行錯誤を積み重ねることに比較的取り組みやすく…」という記述がありました。
これは、こうしてほしいという一定の基準があるとして、そこにはまっていないと評価してしまうと「できない(しっぱい)」になるので、試行錯誤によって基準に向けてすり合わせるという上手い方法をとっています。
他にも、あえて間違っているとは言わず、もっといろいろなパターンをやってみて、基準にあったものがでたら、「これは、この点で〇です、ここで〇です」と認めたものをポジティブに評価しまくる方法もあります。
【特別支援教育研究(雑誌)より②】
同じ号のなかで、別の項では「苦手なことを克服するための活動は、児童生徒にとって魅力を感じるものではないと考えられるからである。このままでは、社会に通用しないからこの苦手な部分を克服しましょうと考えるのではなく、『どうしてもできない苦手な部分は、これを使ってみよう』『これがあればできますでよい』と考えて指導することが重要である」
ここでは、苦手を克服するプロセスより、とにかく授業の目標をできることを使って達成する、優先する、という考え方だと思います。
また、ICFみたく、道具や人の支援を活用して、目的が果たせていれば「できる」とする考え方も加味されています。
授業目標を達成するための手だてです、といえば、個の目標に対する取り組みはここでは取り扱わないとすることができます。しかし、それが学校生活を通じて「できること」「できる範囲のこと」「できるように支援」が続いてしまうと、中学生になっても、高等部になっても積めていない課題が山積していたということになりかねません。
かといって、発達段階的に、身体機能的に難しいことをやり続けるのも教員にとって、児童生徒にとって不幸です。できそうなこと、やればできることを取り上げ、難しいことは線引きして控えること、この区別は、是非OTにやってもらいたいところです。
段階をふめばできるか、作業分析をして、ここは手伝ってもらって、ここだけ頑張ってもらったらどうでしょう?みたいなことは、個に応じた指導のため、可能性のあることに取り組むために必要なことです。