学校の文化 担任の先生より

999)特別支援学校 Teach For Japan

Teach For Japanという団体があって、欠員がでている自治体などに人材を派遣して、臨時免許などを発行してもらったうえで教員として働く、ということがニュースの記事であがっていました。

これについては、ポジティブ、ネガティブの両方があり、考えさせられるものがありました。

【背景】
これまでは、このような人材育成と人材派遣の形があったとしても、認められなかったし、受け入れられなかっただろうと思います。教員は、教員養成課程を経て、教員採用試験に合格してなるものだ、という考え方が強かったですし、教員としての資質を高めるために、教員免許更新制までやったのですから、教員になるということは、ある意味崇高であるということだったのでしょう。

しかし、今や「定額働かせ放題」、「採用試験受験者の減少」、「教員の病休の増加」などのネガティブなイメージや現状が周知となってしまい、教員の魅力も十分に伝わっていません。それらは、物は言いようで切り抜けられましたが、「未配置と欠員」は数字に表れる、不適正さなので、成果をあげないと解決したとは言えません。いつまで未配置を放置するんだ?という現状に耐えられなくなっているのかなと推察します。

本音をいえば、少しずつ学校教育の形を変えて、もう少し低いところでソフトランディングさせようと考えていたのでしょうが、想像以上に配置できる教員の数が減ってしまったのかなと思います。

教員の員は「人員」で、数が揃わなければいけません。これまでは教員養成課程と教員採用試験を通過儀礼としてきましたが、人員を埋めるために臨時免許や特別免許という使える横道を最大限に利用しようということでしょう。

【感じたこと】
Teach For Japan(=TFJ)では、教育に対して強い思いがあり、公教育を通じて社会課題を解決していきたいという思いを大事にしているそうです。

私も、学校以外の社会人経験と、リハビリテーション技士としての知識・技能を生かしたいという思いがあって採用試験を受けました。しかし、思い描いていたものがどれくらい形になったかというと、ここにきても2~3割くらいしかできていない気がしています。今でこそ他職種連携や地域連携、多様な人材を確保するといった流れができていましたが、私が教員になった頃は余所者扱い、現場の破壊者みたいに言われることがありました。それでも、一応教員免許はもっていましたし、採用試験も受けました。存在することに後ろめたいものはありませんでした。

今回は、教員養成課程、教員免許のハードルが下がったということ、学校・公務員という独特の文化に関して免疫がない人材が入ってくること、この二つをどうするのかと危惧しています。

【その他、いろいろ思うこと】
教員は大学院レベルでなければならない、時代の流れに応じてリニューアルすべきだ、と言われたのは、それほど昔のことではありません。ここにきて、希望すれば免許をあげるからきてね、になったのですから、この一貫性のなさは何だろう?と思います。

臨時免許等を得て、入ってきた人材は授業だけするのか、今の教員と同様のことをするのか、気になります。授業だけするならば、授業以外のタスクがすべてその他の教諭に厚みを増して降りかかってきます。今の教員と同様のことをするならば、正規の教員(教諭)を雇わなくても、安価で年度ごと雇用継続を見直せる便利な人材確保の前例ができることになります。

正規の教員がコアで、臨時的に任用される講師が不足している昨今ですが、そのうち様々な業務は取り下げて、授業というそもそもの仕事に特化した人材を入れることになるのかもしれません。そりゃ、価値があるか分からない仕事、スキルアップが見込めない事務作業、納税者を満足させるための過剰サービス満載の現状では教員になりたくないけれど、子どもの指導をする魅力に特化した仕事なら、今よりも希望する人は増えるかもしれません。

それが、現在の教員にかかわる労働問題を解決する一つの解だと思いますが、それを利用する納税者はビックリするかもしれません。学校という何でも揃うデパートを期待してきたのに、中に入っていたのはシャネルとポムの樹のテナントだけでした、みたいなことになっていたら、どう思うのでしょう。

あんなに教員に要求して、責め立てたのは間違いだった。
仕事の範囲を決めれば、あんなに学校が疲弊することはなかった。
工夫すれば、公立学校をもっといい形で残せたのに

半世紀くらい後に、こんな感じで回想される日がくるのかもしれません。