日本教育新聞(3月1日)に掲載されていた「不易と流行」の記事を紹介します。
【記事抜粋】
「1月末、中央教育審議会の答申が取りまとめられた。『令和の日本型教育を目指して』と題したこの答申は、包括的な諮問を受けていることもあって、内容が極めて多岐に及んでいる。これについて、遠藤洋路・熊本市教育長は「『いわゆる全部のせ』ですね」
と書かれており、末に
「必ずしも健康体とはいえない現在の学校の現場にとって、この全部乗せラーメンはいささか量が多過ぎよう。全員が完食できなかったとしても、そこは笑ってご容赦いただきたい。」
と締めくくっています。
【似た話】
どこかの学校の研修会にでていた資料のなかに、ケーキの絵がでていました。
「このケーキは子どものニーズを示しています。上にはいろんなフルーツがのっています。学校という土台の上に、いろんな子どものニーズをのせていくのです。」というような話でした。
なんだか似ていますね…。
みかけは華やか、何でもあり。
しかし、それを支える土台は崩れてきていませんか?
その土台も、果物から水分が抜けてベシャベシャ…。
大事なことは、しっかりした土台のなかに、必要なだけの果物がもりこまれている、または土台そのものにしっかり味がついたチーズケーキではないかと思います。
やみくもに盛った果物は、いつか崩れます。
【気づいたことは何でしょう?】
多くの教育系の方が目を通しているであろうこの新聞で、このような記事が堂々と出ていることに違和感を感じました。学校教育について、交通整理ができていないと公然と述べているのです。
答申などを出す側と、実際に指導にあたる側が乖離しているように思えます。
「時代おくれ」
「子どものキャリアに合わせた学びができていない」
「学校は何をしているんだ」
そう言われないために、とにかく付け足すことで帳尻を合わせているようです。
誰が大きなところでマネージメントをして運用面まで責任をもっているのでしょう。
多くの大人が子どもから離れている気がします。
そうして、一番言いやすい学校に責任と役割と不満をぶつけることで、多くの人が満足しています。
学校は公器として、学校教育法がある限り存在するでしょう。
しかし、中にいる教職員は入れ替えができる人員です。
多少いなくなろうと、補充ができ、それなりにまわっているなら大丈夫ということなのでしょう。
https://magomago1.org/353overreactionmaketheteacherclose202103/
前回は「353)特別支援学校 年度末の保護者面談より」について書きました。