学校では教える側に持論があり、児童生徒のほうにも考え方があって、とりあえずそれらをベースにして新しいものを得たり、更新したり、強化したり、削除したりしています。
今回は特別支援学校ではなく、私が児童だった頃のことを思い出したので書いてみます。
あれは、小学校5年生か6年生だったと思います。
授業は図画工作で、大きなブロックみたいな石鹸を彫刻刀で削り、色をつけるというものでした。
そのとき、私は図書館で本を読み漁る子どもで、運慶の言葉を思い出していました。
「像を掘り出すのではなく、木の中にある像を取り出す」といったものだったと思います。
目の前にある石鹸の中に、自分も仏像があると信じて掘り出してみよう、そう思って前後左右に石鹸をひっくり返しながら、ちくちくと削っていました。
そこへ、廊下を通りがかった教頭先生だったと思います。
何を思ったのか、「これはね、頭がどのあたり、手がどのあたりと線を引いて、それから掘るといいんだよ。」と伝えてきました。おそらく、計画的に物事をすすめる、バランスをとるということを伝えたかったんだと思います。
それを聞いていた担任の先生、教頭先生が教室を出て行った後に、「気にしなくていいから、そのまま続けなさい。」と一言告げて、その場を離れました。
そのときは、「担任の先生は自分の作品に対する考え方を尊重してくれた。」と思っていたのですが、何を思って作品を作っていたか、誰にも言ってなかったので微妙なところです。では、あの時何があったのか、今思い返してみると
①管理職が現場干渉してきたという抵抗感。
②授業者に不足があったと暗に指摘されたようで、プライドを傷つけられた。
③児童の学習態度や能力について、自分が一番よく分かっているので、今の指導を尊重して欲しい。
④児童の主体性を尊重して授業を進めたいという教育観があった。
このへんがあったのではと思いました。
このときの担任の先生も、退職前は校長になっていたので、またその時の教頭先生の気持ちが分かるようになったのでしょうか?聞いて、確認していないので分かりませんが。
児童を信じてやらせてみる、いい仕事をするためのコツを教授すること、これらはいずれも間違いではありません。間違いではないけれども〇になったり、×になったりします。これが伝えることの面白さであり、厳しさだと思います。
https://magomago1.org/440teacherandotptsupporteachother202107/
前回は「440)特別支援学校 療育にかかわる人の持ち味②」でした。