特別支援学校で行われる授業評価で、よく言われる格言(?)があるので、いくつかご紹介します。
【授業に関する格言(?)】
・子どもが分かりやすい授業。
・子どもが主体的に活動できていた。
・子どもがよく見ていた(注目)。
・待ちが多いです。
・大人が喋りすぎ。
・子どもにどうなってもらいたいですか。
・この授業で伸ばしたい力は何でしょう。
・この場面では、教員の支援があったほうがいいですね。
・この場面では、子どもがやろうとするのを待つ方がいいですね。
・視覚支援があり、分かりやすい。
【格言(?)について、思っていること】
集団における授業では、授業に参加する面々ができることを前提に考える、最大公約数を求めることになります。そのため、個に特化した目標と指導は導入しにくくなります。
公約数を保証したうで、そのなかで学ばせたいことをクローズアップさせていくことが大事だと思います。
「授業の中で、〇〇君の目標は何でしょう?」とツッコむ人がいますが、広い視野で捉えると、「〇〇君はここで頑張ってもらおう!と思われた場面や課題はありましたか?」が正しいのではと思います。
なぜなら、授業は見通しがもちにくい日替わりの時間割、コマ切れで環境が変わり、とにかく45分や50分過ごすことが求められる場です。それを忘れると、教室に入ることがやっとの子どもについて、「授業で何もさせていない」、「この授業で身に付けさせたい力は何か」と平気に聞いたりできるのです。
「分かりやすい」は何をもって分かりやすいとするのか、よく考える必要があると思っています。
絵が大きい、文字数が少ない、構造化されている、端的な言葉、などは伝えたいことを明らかにする工夫であって、これらを実施しているイコール分かりやすいではないです。分かりやすいのは大人がそう感じているだけで、子どもごとに認知機能や感覚機能はどう働き、何を手がかりにして、どれくらいの情報を処理して出力できるか、想像力を働かせる必要があると思います。
授業のサブティーチャーが喋るか、喋らないか、これも指導技術の問題で、ルール化して守らせることが正しいかといえばそうでないと思います。共感的な雰囲気は大事ですし、教室にいる大人と子どもが意見を出し合って考えることも大事だと思います。しかし、ここは集中して欲しいという時は、音を立てないようにする場合もあります。根拠と意味のないルーティンで、何か特別な配慮をしてみせたと満足していないでしょうか。
喋るにしても、喋らないにしても、柔軟性に欠けるルーティンは授業者(メインティーチャー)に授業を進める交通整理への負荷を一段とアップさせます。授業の雰囲気が重くて新任の先生が前に出ず、ベテランの先生ばかりメインティーチャーをしている学級は要注意、周りの人が育ちません。
大人が支援の手を出すか、出さないか。
「この子はできるから手を出さない、出すと主体性が損なわれる」という意見が出ることがあります。
手を出すことは悪ではありません。手を出すことで学ばせたいことに集中できるか、サポートすることで心理的な安定が得られるか、などによって異なります。主体性を求めるために手を出さない、観点を絞って集中させたいので部分的に支援する、どちらも悪ではありません。なので、「できるから手を出さない」ではなく、「目標をここに置いているから手は出さない(出す)」が正しいと思われます。
https://magomago1.org/443rudepartnermakeyoutire202107/
前回は「443)特別支援学校 ペアで仕事をするときの罠」でした。