知的障害部門の高等部の生徒につく先生が、「走っては、いけません。」と言っていました。
よく、学校では「してはいけない」ではなく、こうして欲しい形に変換して「~しましょう」などと伝えるようにと言われています。
この指導方法の伝わり方は、子どもを否定的に見るのではなく、肯定的に捉えて指導に結び付けることが望ましいとする考えが前面に出ているようでした。これについて、私は実際の指導で活用する場合は方法論的に導入するのではなく、子どもの実態と、こうなるように指導しよう、の組み合わせで考え方を変えた方がいいと思っています。
【子ども自身で対案が準備できるか】
何らかの活動をしていて、「していけない」と言われたとき、「ではどうするか?」がくると思います。つい何かに夢中になって忘れていた、自己抑制が効かずに思わずやってしまったといった場合は対案が自分で準備できると言えます。
よく、「廊下は走ってはいけません」が例にあがりますが、この場合「歩きましょう」が模範解答になります。が、自分で間違いを模範解答に切りかえるために、あえて「~いけません」と働きかけるのはアリだと思いませんか?
つまり、「自分でどうすべきか考えてみて」という考える機会を与えてみるということです。
【「しましょう」は選択肢の一つ?】
先生が求める「歩きましょう」は唯一の答えとして存在するものでしょうか?
でも、僕は急いでいるんだ。
歩くがいいなら、スキップはいい?
走っていけない理由は言われていない。
そこで歩いて移動する、走ることによって起こる事故などについて、子どもが当事者意識をもって向き合えなければ、素直に指示が入らないことは想定できます。説明して理解できる子なら、説明して、「君が痛い思いをして欲しくないから、心配して言っている。」などと語りかければ、響くものはあるかなと思います。
理解できない、受け入れられないなら、歩くことをパターンで学習するよう練習するか、事故等を回避するため教員等が側につくしかありません。(予見できる事故を回避する対応を怠った、ということになりかねません)
【指導者は自分で考えることが大事】
学校ではいろいろな指導方法やメソッドが混在していますが、理想的な指導方法だからこれだと決めるのはどうかと思います。(試してアセスメントするのはアリ)
やったらどうなるか期待しつつ、どんな形で学習されるか予測したり、試行錯誤したりして、先生が納得して運用できる指導のカタチを構築できるのが、一番いいと思います。