医療系の専門職になると、視野は狭くなりますが、深い所を見通す力がつきます。
特別支援学校などの生活支援が主の分野に行くと、「あれ?もしかして本質を見通しているのは自分だけ?」なんてことも。
【いろんな視点があるなかで】
学校では、多くの子どもが集まって、共に学びあう場所になっています。
学ぶ内容や方向性は、その時代を反映し、キャッチフレーズは文部科学省が勝手につくってきます。
学校や教員はそれに則って、何をもって適切か分からないけれど、適切だという指導方針を立てていきます。
多くの教員がいて、たくさんの教育観が入り乱れているのですが、どうも昔の訓練的なものや、医療系にありがちな科学的かつシステマチックな支援について、良くも悪くも別物扱いにされる雰囲気が、いまだにあります。
ちなみに、私も発達的に、年齢的に、将来を見据えて、生活行為的に価値のあるものはないかな?と考えながら指導内容や方法を考えています。集団の指導に支障がでなければ優先順位を高くして、時に身を削って取り組みます。
「できるのに、手を出している」
「かわいそうよ」
「手をかけていない」
陰口はいろいろ言われました。
にもかかわらず、その子のできることが増えたり、落ち着いて行動できたりすると、誰がどのように考えて支援して身に付けたかはそっちのけで、「〇〇しているの、えらいねー」、「落ち着いたねー」などと手のひらをかえして子どもを褒めたりするのですから、勝手なものです。
【かかわる意味】
教員がその子とかかわるのは、何かしらの縁です。
陰口はたたかれますが、伸びるところをおさえて指導する、どこかに成長のきっかけはないか探すなどを続けることが大事で、それが縁を意味あるものにすることにつながると考えています。
子どもの主体性ばかりが尊重され、何が良くて悪いか、どこに向かうのか理解していない子どもに対して、やらせっぱなしにするのは感心しません。主体性を尊重しているようで、実はただの無責任じゃないの?と思うことがあるんです。
基礎的なことを身に付ければ、学びや生活が広がります。
すべてできなくても、一部でもできることを見つければ生活の営みが豊かになります。
持続可能か、リスクはないか、意味があるか、生活が広がるか、人や社会とよりよい関係が築けるか、これらをふまえて、できることを探します。
医療系の仕事から学校などの生活支援に入った方は、多かれ少なかれ挫折感や違和感におそわれます。
しかし、あなたの専門性は間違っていません。それをうまく使うことで、きっと価値ある支援につながります。
あなたも子どもをとりまく大事な環境の一部です。
意味あったと思える縁をつくっていかれることを願っています。