校内の教員間で行われた、学校に入ってきている理学療法士や作業療法士などの専門家に関するアンケートについて、「子ども1人と教員1人が取り出しで抜かれると、集団の指導に影響がでる」という意見の他に、もう1つ興味深い話がありました。
それは、「授業づくり」「教材づくり」を求める声が増えてきたということです。
教員は、毎日同じではない時間割を確認しながら、どのように授業をつくるか考えています。
同じことの繰り返しによって学ぶ授業よりも、流を作って変化していく授業のほうが多いです。
そのため、アイディアを出して、それを形づくるために教材を準備する、教職員間で指導を共有できるようにする、の繰り返しになっています。
そこにアクセントをつける指導の配慮点よりも、学年・学級・グループが有意義に学べるには、どんな環境を準備していいかサポートして欲しいということです。
さて、そうなるとその授業前後に何をしていたか、MT(主に指導をひっぱる教員)の力量、子どもの数、指導体制、子どもの実態などをひっくるめて把握できないと話し合いのテーブルにつけません。リハビリテーション技士は、独自の専門性を発揮するだけでなく、コンサルする対象に何ができるか考えることが求められるようになってきているのです。
縦割り的な時代は、教員の指導と、医療の専門家のやることは別建てで、それぞれ同じかごに盛られていればそれで良いとされてきましたが、今は教員にも医療的なエビデンスを伴う指導や成果が求められるようになったことで、当事者意識をもってやらざるを得ない時代になってきているのです。
【なんででしょう】
教員はより緻密で戦略的で、個々に価値のある指導がないとやりにくくなってきましたし、専門家は自己完結でなく当事者意識をもってどんな支援を展開するか一緒に頭をひねる時代になってきたんだろうと思います。
なので、私なんかは専門家がくれば専門家として何について応えて欲しいか具体的に求めますし、材料(情報や場面)を提供しないで都合のいいアドバイスを出させるような無茶はさせません。なぜなら、それが対話しながら共存していくために必要なマナーだと思うからです。