障害をもっている子どもが、誰と、どこで、どのように過ごすかについて、様々な意見がでています。先日、参加したオンライン会議で紹介されたなかで、こどもの権利条約がでていました。
差別の禁止
子どもの最善の利益
生命、生存及び発達に対する権利
子どもの意見の尊重(子どもが意味のある参加ができること)
正直、どれも見ていて、何とでも解釈できるような言葉ばかりと思うのですが、日本の特別支援教育が分離教育をしていて、インクルーシブでないと指摘されているのは周知の通りです。
これに対して、文部科学省として「差別はしていないし、分離もしていない」という意見を出しています。確かに、解釈の仕方ですが、しているといえばそうだし、していないといえばそうだと感じます。
もう一つ、一人ひとりの学びが保障されるべき、という意見もあります。これは個に応じた教育と混同されることがあり、特別支援教育でもさかんに言われている言葉です。座れたら、次は立ってみましょう、足し算ができたら引き算にも挑戦してみよう、のように、個々の段階に応じて学習を発展させたり、活用できる場面を増やしたりします。
【指導の実際】
学校では、多くは学年や学級、小グループなどの集団のなかで過ごし、一部個別学習が展開されることがほとんどだと思います。これは教育課程が示すから、教員一人あたり児童生徒が何人だから、教室の数がいくつあるから、などの決まり事や人的・物的環境に左右されます。
単に経験しましょう、楽しみましょう、という時間であれば何でも一緒にやれば何とかなるのですが、今は個別指導計画があり、個に応じた教育が求められ、納税者への説明責任を果たす(成果の開示)が強調されるため、そればかりでは通用しなくなっています。
そのため、教室では様々な配慮や工夫でもって学習を進めるのですが、一人ひとりの子どもについて、「こんな学習をさせて欲しい」、「うちの子が伸びる工夫ができていない」といった指摘が入ります。
「個に応じた、個別」を丁寧にやると、集団で学びあう環境でない、特定の子どもに手をかけて平等でない、学習内容が適切でない(落ちこぼれとふきこぼし)といった指摘が入ります。
インクルーシブさと、学習保障、どちらかに偏ると、どちらかがおろそかになることは否めません。あれも大事、これも大事で、現場の教員は文部科学省や教育委員会、保護者、同僚、有識者、メディアなどから好きなことを言われながら、矛盾を感じ、何をやっても指摘されるような環境で日々働いています。