担任の先生より

1004)特別支援学校 どんな情報を日々アウトプットするか悩む

最近、日本国内の上位で活躍している選手に「海外での練習で学んだことを紹介したら、聞きたい人は大勢いると思いますが、どうでしょう?」みたいなことを聞いてみました。

これに対して、「オレはそういうことはしたくない。」とのことでした。

意図や真意は分かりませんが、この答え方は学校の教員に入ってすぐの、現役感のある頃に似ているなーと思いました。

自分が経て、得てきたものは、さらっと言語化して伝えられるほど簡単なものじゃない。
自分なりの試行錯誤のなかで得たものだから、一般的なものとして扱えない。
うまく言えませんが、安売りしたくない。
変な捉え方をされたり、誤解したものをこれ見よがしに広めたり使われたりしたくない。

学校に入った頃、周囲にいる担任の先生に対して、「なんも評価できてへんのに、何えらそうに発達を促す指導とか言ってるねん」とか「遊ばせてるだけで、何のねらいも意図もない。教師とか名乗るな」と思って、毎日イライラしてました。

しかし、ここ何年かで、話が通じる先生が割と多くなってきたので、いいか悪いかは別にして、考えて指導する文化が定着してきたんだと思います。昔は子どもと近くて情念的な指導が主流で、今は理性的で科学的になってきたように感じています。これもバランスで、ちょっと科学や言語化することに偏りすぎてきていると感じています。

【じゃあ、なんでまた】
ブログを書くようになって4~5年くらいになると思います。

主観まみれで、後で読み返して「ちょっとおかしない?」みたいな内容ですが、それでも構わず吐き出してきました。どういう心境の変化かと思うのですが、年数が長めの年代になってきたこと(加齢ではないと主張)、教育心理学との出会いが影響していると思います。

以前、少し紹介させてもらった和田修二先生の「老人の役割」の話のなかで、「自分のやってきたことを、自分の言葉で語ること」について共感する部分があったからです。少しでもそれを感じてみたければ、アマゾンで信じられないような安価で出ているので、読んでみてください。

話を聞いて、誤解する人も、知見を安売りする人もでてくるでしょう。しかし、教育には自分の今ある器を揺らしたり、一部壊したりすることで広がるものだと思っています。

いろいろな話を聞いて、「新しい考え方を知った」、「そんな角度で物事が見えるのか」、「困ったときの心構えについて学べた」、「こんなバカなことは俺はやらないぞ」、「この人の考えは間違っている、自分ならこう思うぞ」、

これらはすべて、その後の生き方や考え方に影響するものです。

一部のバカモノがいたとしても、自分の経験などを踏み台にして更に高いところにのぼれた、参考にして役に立った、可能性を追求する選択肢を増やすことができた、そんな人が必ず出てくるはず。

だから、他人から見てバカバカしいと思われるかもしれない経験や考え方で、時代は変わったし古いと思われても、もう少しグダグダな独り言を続けてみようと思います。