担任の先生より

1027)特別支援学校 若者が突然辞める

昨年、同じ学年の教員集団から、年度内に一人退職していきました。その人は初任でしたが、なぜ辞めたのか聞いていませんでしたし、その真意は分からずじまいでした。

自分たちの仕事に対する考え方と、若者の考え方が違うというのは感じていましたが、それが一体何なのか分からないでいたので、図書館から一冊の本を借りてきました。

平賀充記(2019)「なぜ最近の若者は突然辞めるのか」 アスコム
というタイトルを見て、これにいろいろ書いてあるんだろうと思いましたが、しばらく見るのが怖かったです。なぜかというと、自分の何気ない態度のせいで初任の先生が辞めたのではないかということでなく、これからの若者が作っていく社会の価値観が主流となろうとするなかで、自分が時代遅れの遺物になろうとしているのではないか、という危惧のほうが大きかったのです。

そっと中をのぞいてみると、いろいろ書いてありました。しかし、そこに書かれた若者の意見の多くが、私が職場(公立学校)で感じていた違和感やイライラと似ていたことに驚きました。そうして、今の学校には若者が仕事を継続するための条件が揃っていないと感じました。

【若者と先輩のやりとり】
この本のなかでとりあげられていた一例です。

係長の言い分
「最近の若い子って、とにかく答えを知りたがる。(中略)とにかく、どうしたいのかよく分からないのよ。言われた通りの作業はやりがいがないとか言うくせに、考えてと言ったらテンプレがほしいと言う。それで『この職場では成長できない』とか言い出したら、本当に頭にきちゃうかも。」

若者の言い分
「答えがあるなら、まずそれを参考にするほうが無駄がなくていいと思うんだけど。考えてって言われて考えて出したことがあるけど、結局いろいろ直されて係長の答えになったじゃない。(中略)考えることが大事なのはわかる。だけど、それとテンプレを使わないことは違う話じゃない?考えなくていいところは省いて、考えるべきところに時間を割くべきだと思う。」

これについて、筆者は「自分で考えた結果、結局いつもと同じ答えになるくらいなら、考えるだけ無駄。そうではなくて、自分の考えた結果が成果物にちゃんとつながるなら意味がある。おそらく、そんなところが若者にとっての線引きなのです。」と締めていました。

どうでしょう?係長と若者、どちらの意見寄りだったでしょうか?

【私が感じたこと】
どちらの言い分も分かりますが、私は若者のほうの意見に近いような気がしました。どちらも正論だと思うのですが、ただ、公立学校という役所の中で、若者のような論調は通用しないことが多く、昔はそれだけで協調性がなく、職場の輪を乱すと攻撃されたものです。(主張できるようになっただけでもマシだと思えと言いたい)

多少変わってきているとはいいながら、教員の仕事の良し悪しを判断するのは子どもや保護者ではありません。それをするのは組織的に認められる仕事をしているのか管理する上司です。

何をどこまで認めるかは、大なり小なり上に立つリーダーの価値観と判断基準に則っていて、正論は人によって、時代によって違うものなので、仕事の進め方や考え方は明文化されておらず、「聞いてやれ」がいまだに残っています。

昔、公的な文書を前年度に作成したものと同じ型で作成したのですが、ここは1文字ずらす、ここは1文字あける、と内容よりも書式を細かく修正するように求められました。なので、「誰がやってもはめこんだらできる書式を用意しておけ、こんなことに時間を使わせるな」と思ったものです。