学校の文化 担任の先生より OT・PT・ST

1061)特別支援学校 障害を見るな、その人を見るべし

学校の教員も、作業療法士も、「障害をみるのではなく、その人を見るべし」みたいなことを言われます。それは車の修理のように、機械的に物事をすすめるのではなく、その人の感情や生活実態、発達や成長、周囲の人の心情や事情などをふまえながら進めてください、という注意喚起みたいなものだと思います。

学校の教員養成課程の学生も、作業療法士の養成課程で学ぶ学生も、それぞれの職について学び、対象となる人のなかでよく見られる疾患や障害、支援や指導方法などについて学び、覚えることが多かったり、学ぶ範囲も広かったりだと思います。

しかし、実際の対象者の支援を任される、直面する機会といえば実習くらいで、実習と現場に出て積み上げていく部分がとても大きく、「人」をみてどうするのか、スイッチがすぐに入る人はまれだと思うのです。

これまで学校等で学んだこの疾患や障害像、福祉用具などについて、これが、あの〇〇なのかと刺激をうけつつ、どこまで学習の支援や治療としての引き出しが通用するか試すことになるのです。

【やってみた】
やってみると、目に見える障害だけでなく、既に学んだ引き出しをもっとたくさん開けなければならないことに気づきますし、自分がもっている引き出しだけでは足りないことにも気づきます。そうして、既にもっている情報と、対象者から得られる情報を混ぜ合わせながら精選し、対象者のイメージや、指導や支援の方法を導き出していくのですが…。

そこまで進めないでもがいているときに、冒頭のような「障害をみるのではなく、その人を…」みたいなことを言われるんだと思います。

今思うと、それを言われているうちは、期待されているのかもなーと思います。中には、「私のほうが経験があって、自分のほうが分かっている」みたいなマウントをとりたいだけの人もいるかもしれませんが、今、経験の浅い人がどのあたりで困っているか、おおよそつかんだうえで、「もう少し殻を破ることができるかな?」と思って言う場合が多いと思うのです。

【それで、どうなる】
ある程度、頭の中で情報が整理できているなら、「障害をみるのではなく、その人を…」で新しい扉が開くのだと思いますが、そうでなければ手に余る情報と観点におぼれて、動けなくなってしまうかもしれません。

臨床では、こんなときどうするでしょうか?私もそれほどいた訳ではないので、これという対応は知らないのですが、患者さんは予約や予定の枠に入って、セラピストの前に現れることが分かっています。逃げる訳にはいきません。

たぶんですが、対応できる先輩に入ってもらい、アシスタント的につきながら学ぶこと、事前に先輩からアドバイスや指導を受けて準備する、できないなりに準備して再トライする、といったことになるのではと思います。先輩セラピストと時間がずれているから、治療が終わってカルテを書けば時間がとれる、といった利点が臨床にはあると思います。

ところが、学校では先輩が並走できる機会は限られていて、同じ時間に、同じように児童生徒を抱えているので、それほど協働できません。下校後は各学級の準備や校務分掌、保護者対応、文書作成などに追われてしまいます。それでも、明日はやってきて、児童生徒は登校してくるのです。

【放棄】
教員には、様々な専門性や役割が課せられるようになりました。その中に、「保護者への信頼」などの感情労働も含まれます。障害像と実態と学校の運営のからみ合わせる困難さ、難しさを乗り越えなかった先生はどうなるでしょう?

多くの場合、障害を見ないで希望されたことを忠実に遂行する、学校にある指導方法を踏襲することで役割を果たす、といったことで仕事をすることが増えていきます。

確かに、障害を見ずに児童生徒と向き合っているのですが、障害をもつ児童生徒への配慮や予後予想などの観点がごっそり抜けていて、事故や二次的障害を引き起こすのではないかと、周囲をヤキモキさせることがあります。

【障害は見る必要がある】
「障害をみるのではなく、その人を…」と言う人の多くは、無意識に障害に基づく配慮や許容範囲が意識できているのっではと思います。ところが、障害を見ることを本当に放棄してしまって、感情論や悪平等、人権などに話をすりかえるようになったら目も当てられませんし、指導について話すこともできなくなってしまいます。

発達を促すこと、無理せず生活できること、安全に生活できること、やっていいこととダメなことの線引きができること、これらを説明するためには、障害をみることが必要です。障害も、生活も、感情も、それらを混ぜ合わせていくことが大事で、至上主義的になってはいけないし、偏り過ぎてもいけないんだと思います。