今年度も3か月経ち、少しずつ研究授業が行われる時期になりました。
新規で先生になった人、数年経った人は、「研究授業」ということで、自分が担当している授業のどれかについて、年に数回、研究授業の機会が設定されます。
研究授業の日程が決まったら、その時間どうするのか、指導案(授業の設計図みたいなもの)を作成して、先輩の先生などに添削してもらい、それをもとに実際に授業をやってみて、どうするのがいいか意見を頂く、みたいなものです。
普段の授業や校務分掌、保護者対応、会議などをこなしつつ、指導案を作成するのは大変なことです。それでも、頭の中を整理したり、言語化したり、求められる水準に達するようにエンジンをふかすためにも、大事な機会だと思います。
【見てみた】
私自身、あんまり他人からあれこれ指摘されるのは好きでないタイプ(意見を言って欲しいです~、などという若手の先生が理解できない)で、指導案を印刷して、配りながら「ご意見やご指摘を…」とか言うのはすっごく嫌いです。
だからではないですが、指導案を書くから、見る状況になっている今も、書くことの大変さは忘れないようにしたいですし、指導案から何を考えて書いたか、読み取ることが自分に課された責任だと思うんです。
今回、2つの指導案を見たのですが、そのうちの1つが気になりました。
「学習指導要領」、「指導計画」、「連携」、「実態に応じた」といった単語が多いです。その割に、教材に具体性や一貫性が感じられず、オリジナリティも乏しいし、何を求めているか曖昧で分かりにくいと感じました。
うーん、これは権威や枠組みに沿っているのだから適切で、批判されないように自己防衛するタイプだな…と思いました。最近、適切さを求める傾向が強くて、ルールの枠内におさまっていれば良し、みたいなことが多いと感じていました。また、努力はしないが批判しないでタイプもいて、力量のなさを組織的にフォローすることが年々、増えていると感じています。
私見ですが、指導要領や年間指導計画といった「枠」は、あくまで枠であって、実際に授業でどんな絵を描くかは授業を受け持つ先生です。規準通りだからいいだろうというのは大人の論理であって、子どもには関係ありません。
興味をもつか、分かるか、楽しいか、安心するか、期待するか等、それらがないと、いくら規準通りだと主張しても、意味がありません。
指導案の最後に、ふりかえりの場面では、「できたことを誉める」とありました。この内容では具体的に何ができたと言えることはないでしょう。それでも褒めるのですから、シナリオ通りに褒めればよいと考えているのでしょう。
この授業の反省会が行われるのかどうか、確認することになりますが、あったとしたら何を言えばいいのか、ちょっと考えてみたいと思います。